| ■ new entee memo (beta version) へのリンク |
| Date: 2004-10-25 (Mon) |
まだソフト自体が「ベータ版」とのこともあり、また、使い方も、その機能面での利点もよく理解できていないこともあり、「正式な切り替え」はちょっと先のことになる。だがしばらく実験的に、流行りのblog版のentee memo (beta version) へ、新しい記事はアップしていくことにする。嫌になったらまたこちらに戻ってくるつもり。
寛大にも、entee memoをブラウザの「お気に入り」や「購読リスト」に加えている方、あるいは、「はてなアンテナ」に登録している方、こちらも追加していただけると有りがたいです。
| ■ 詩作の試作(「聖痕異歎」をアップ) |
| Date: 2004-10-22 (Fri) |
昨年のちょうど今頃から温めていた「半エッセイ・半詩文」のようなものを、とりあえず完成、アップする。(まだ推敲される可能性もあるが。)誰もこんなモノ読むほどヒマじゃないだろうと思うが、たったひとりの人に見つけられ読まれるだけで、その役割のほとんどは終わるのだ。
もし、二人の人に読まれたら相当ラッキー。三人とかになれば、もう天にも昇ろうというモノだ。願わくば、解かる人の目に留まらんことを。
「回廊」にアップするのはちょっとどうかとも思うが、こんな文章が紛れ込んでいるのも「衒学」的で良いよね。http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2004/seikon_itan.html
| ■ 「風の、かたらい」関連2、その他 |
| Date: 2004-10-19 (Tue) |
上の件で、石内さんと話をした。もちろんここに書かれていないようなことについても口頭で。このページに書かれている私自身のスタンスというのを彼も読んでくれたばかりでなく、寛容にもよく理解してくれたのだ。いやそれ以上だ。石内さんは「風の、かたらい」の企画と運営を「私に任せる」言ってくれたのだ。彼は会を成り立たせるための「出資者兼オーナー」という立場の方が良いとさえ言った。思ったことを書いたことがとんだ流れに。嬉しいような「やばい」ような。
吉と出るか凶と出るかは分からない。しかし、「音と言葉の絶妙のバランス」の上に成り立つ即興、というのを目指すための人選や構成を考える楽しみが出来た。実にありがたい話である。
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閑話休題。
いったいblogってどういうものなんだ? 説明をいくつか読んだが、「スゴイらしい」ことは伝わるが、今ひとつ実感...というか、その本質的なアドバンテージがよく理解できない。だれか、「噛んで含める」ように教えてくれないかな。「仁侠キネマ」のサイトとしてblogを立ち上げようとも思ったが、そんな「狭隘」な利用法より、このentee memo自体をblogに置き換えた方が良いのかどうなのか、今、思案中である。検討中って言っても、材料がないからイマイチ正しい判断が出来ないんだよね。
あの、分節やフレーズの切れ目を無視してやたらに変なところにどんどんリンクができちゃうblogは、どうかと思うんだけど、そういうものとは限らないんだよね?
| ■ 「米軍司令部の座間受け容れ」関連 |
| Date: 2004-10-17 (Sun) |
10月17日(日)の一面記事
米軍第1軍団司令部の座間受け容れについての各紙の扱い
各紙の同問題に関する温度差は明らかだね。
■ 毎日新聞
米司令部「座間」受け容れ
安保「極東条項」柔軟に解釈
再定義へ防衛指針見直しも
政府は、16日、在日米軍の再編協議で米側が提案している米軍第1軍団司令部(ワシントン州)のキャンプ座間(神奈川県)への移転を受け容れる方向で本格的な検討に入った。...
コメント:日本政府が米司令部の受け入れを前向きに検討し始めていることを一面記事に。
■ 読売新聞
配当、コクドに一括送金
西武鉄道個人名義株 「実質保有」認識
西武鉄道が有価証券報告書に株主名義などを偽造記載していた問題で...
米軍再配備と日本
信頼関係強める好機 岡崎久彦 外交評論家
米軍再配備に関する日米間の戦略協議がなかなか進捗しないという。私は当然と思う。従来とも日米間の戦略対話というような事を聞くと私はこそばゆい思いを禁じ得なかった。日本には戦略がないからである。...
コメント:西武のスキャンダルを一面トップに。「米軍再配備」の件を評論家が語るという体裁で一面記事の一部に。
■ 産経新聞
「北すでに核兵器保有」
プルトニウム型 細田長官が明言
細田博之官房長官は十六日、島根県内で開かれた自民党県連の会合で講演し、北朝鮮の核開発問題について「北朝鮮はもう、核兵器をほぼ開発している。プルトニウム爆弾という長崎型の原爆はできている。...」と述べ、北朝鮮の核兵器保有を明言した。
対米開戦通告の遅れ
最終電文修正が一因 元大使新説
コメント:同日の一面では取り上げず。その代わり他の2紙が取りあげていない「北朝鮮の核兵器保有」を一面トップに。ただし、10日前に偶然読んだ10/6(水)の3面で
米軍再編「座間司令部」極東越え重要拠点に
国内に反対論も 撤回なら同盟影響
というヘッドラインで特集記事を組んでいる。
■ 朝日新聞(新聞は購入せず)
ネットのトップ記事
マサイ先祖の地「返せ」 ケニア
ケニアのマサイ族が100年前に英政府に明け渡した「先祖の土地」の返還を求めて、白人が所有する大農場への不法侵入や街頭デモを繰り返し、英政府を相手に返還請求訴訟を起こす構えも見せている。
コメント:「政治」欄においてトップから7番目の扱いで「米軍再編、極東条項との整合性には柔軟姿勢 町村外相(10/16 20:14)」とある。ウェブは新聞と全然違う記事の扱いなのか?
いずれにしても、「米軍第1軍団司令部の座間受け容れ」についての意見も声も私の周りでは聞こえてこない。これはわれわれ「やまとんちゅう」の生存にも直接関わりのある話なのに、まるで他人事みたい。これは要するに500人あまりの将校からなる司令部が、合州国西海岸から太平洋を越えて東京郊外まで「前進」してくるということだぞ。沖縄米軍基地の行く末についてわれわれのほとんどが無関心なのと同じなのか。それは「座間」だけの問題なのか?まさかね。だからいいかげん無関心でいるのは止めようとここに書く。
| ■ 「風の、かたらい」関連 |
| Date: 2004-10-17 (Sun) |
昨夜、石内矢巳の主催する「風の、かたらい Vol. 5」にメンバーとして出る。メンバーとして出る、と断ったのは、打診のなかった「突然の日にちの設定」で図らずもゲストとして出たこともあるという意味である。石内さんに「風の、かたらい」の運営を一任すると言った関係上、どんなやり方をするかは彼に掛かっている。いろいろ言いたいことはあっても、ライヴのあれもこれもに自分の意志ややり方を押し通すのでは、いろいろなところに顔を出す意味がない。自分の多様性発見のためにもならない。自分のやりたいことは自分のグループで実現すればいい。そう「謙虚にも」考えたのだ。
「風の、かたらい」で行なわれる主たる方法は、簡単に言えば、詩(テキスト)の朗読と楽器奏者によるスポンテイニアスな即興。こうしたテキストとの即興で自分が期待することは、楽器同士のいわゆる純粋な即興セッションから得られない「何か別のもの」だ。たしかに、自分のやっていることは、端で聞いた限りではいつもの楽器を使った即興と思われるかもしれない。それはみとめよう。だが、自分の中で起きる内的体験はあきらかに違う。この「会」で旨く行ったときの満足の仕方も、普段の「十割自己投機」型の即興とは質が異なる。簡単ではないが、やはり朗読者の意図するカタチでテキストがはっきり聞こえてきて、そのテキスト尊重の上に成り立つ「音と言葉の絶妙のバランス」の上に成り立つ即興を可能にしたい。普段自分がやる即興とのこうした違いがなければ、私には朗読者と一緒に演奏する意味がない。
「朗読者の意図するカタチで」というのは、つまりテキストを書いた本人がそれを伝えるために必要な、ある単語をその単語として認識できる最低限のアーティキュレーションがあって、という意味である。もちろん、楽器の音の陰に隠れてあえて「聞こえにくく読む」ということも、朗読者の意図や技巧としてはありうる。
演奏中は、テキストの聞こえてくる在り方(自分の耳に到達する在り方)が、朗読者によって意図されたものであるかをすべて瞬時に認識できるとは限らないので、朗読者の意図を助けるカタチで即興が成されるかどうかは、保証の限りではない。しかし、朗読者の意図を逐一把握していなければできないような即興が行われれば、なにも言うことはない。そこにコラボレーションを通じて目指すことのできる、即興者にとって困難だが価値のある領域がある。
断っておくが、「風の、かたらい」は、大変な可能性を秘めた「会」である。できることなら可能な限り関わっていきたい。
私にとっては、出演する幾人かの朗読者とどのようなコラボレーションができるのかに関心があるし、自分以外の幾人か(自分以外の1−2名くらい)の音楽即興家を交えたカタチは大いに結構だが、即興音楽家同士のコラボレーションを重視することになると、普段の即興と変わらなくなり、自分には余り意味がない。朗読パフォーマンスの間に行われ、朗読自体を導引するような、あくまでも朗読と関連した詩の合間にやる音楽即興なら意味はあるが、朗読と切り離されたものとして音楽即興があるのであれば、それも「風の、かたらい」でやる意味がない。これが私の基本的なスタンスだ。
どうしたら楽しい今の「風の、かたらい」がもっと良くなるかを考えた。やはり朗読する人が中心で、その朗読者が共演する演奏者を指名するというのが基本であれば良いと思う。あくまでも詩を朗読する人が自分が一緒にやりたい人を連れてくるべきだ。それがきっかけになって他の朗読者が一緒にやりたいと思えばそれが広がりとなる。「朗読者が喜べない演奏者」と「朗読者」を組み合わせることもどうかと思う。そのためには、朗読者があらかじめどのような即興音楽家が参加するのかを承知している必要がある。すなわち、「風の、かたらい」をむやみに即興ジャムセッションのように考えて、沢山の演奏者が「朗読とのコラボレーション」という主たる目的を理解せずに参加してくるのも、私には受け容れがたい。結果的に新たに知り合うことになる演奏者とは、もちろん個人的な努力でその縁を大事にしようと気持ちが沸くが、それと音楽を通じて何を実現するかというのは別問題。
石内さんに一任した関係上、私には「飽くまでも自分の良しとするものがどういうものか」を言うことしかできない。でも今度対面で話しますから検討して貰いまっせ。
ご意見はこちらで
http://www.archivelago.com/Cgi-bin/enbook/
| ■ β版でキネマ・ログを |
| Date: 2004-10-15 (Fri) |
う〜ん、実験と言いつつ少しでも実用性のあるものを。
片っ端から観たビデオなり映画のメモをつけるとしよう。
| ■ ボクたちの“茶色い朝” |
| Date: 2004-10-08 (Fri) |
先週、「こういうカタチでやって来るとは。オレの“茶色い朝”が...」と友人のO君から震える声で電話があった。彼は先日こんな通達を上司から受け取ったという。
>> 個人情報保護法の施行が来年4月1日からあるので、わがF社でもそれに伴い、プライバシーマーク(Pマーク)を取得しなければ、個人情報にまつわる仕事が取れなくなる状況になる。機密情報を扱う場合にもクライアント側からプライバシーマーク取得企業に下請けを出してくれと代理店に依頼される場合も出ており、われわれにとってプライバシーマークの取得が重要なものになってきた。そこで、プライバシーマーク取得のために各部署からの協力者を出すことになったので、相談させて欲しい。各部署の担当者は、個人情報の管理について、各部署で管理ルールを作る。そのための作業を徹底することにした。コンサルタントが入るので、コンサルタントと相談しながらルールを作っていくことにする。以上宜しく。<<
ボクには彼の言いたいことが、すぐに分かった。この話を受話器越しに聞いていて、彼の戦慄が自分に感染した。そしてまず思ったことはこういうことである。新手のファシズムではないか、と。
「プライバシーマークを取得しなければ、...仕事が取れなくなる状況になる」。これは、企業生き残りの危機に対する恐怖を大いに醸成するものだ。不合理に見えつつも、「情報管理スタンダードにミートした企業にならねば!」と多くの企業を浮き足立たせるのに効果は十分だ。そして、Pマーク取得という動機は、表面上、あくまでも「自発的」かつ「自主的」なもの、というのがこれまたミソだ。
だが、「それにしても正直言うと、ないモノを守れって言われてもねぇ」と彼はぼやく。なぜなら例えば彼の会社はあきらかに「個人情報を扱わない」会社だからだ。そもそも広告に関わっていてもダイレクトメールの配送などを専門としない、ただの広告制作会社に「顧客の個人情報」など集まるはずもないのだ。企業の情報ならともかく、個人の情報やその管理などは、彼の会社の業務の埒外なのである。
にもかかわらず、先に上げたような社内通達が来たというのだ。なんてことだ。
名刺も全社で5000件以上集まれば、「個人情報」らしいとも言った。バカげた話だ。データベース化されていなければ個人情報とは呼ばれないんじゃないというかという話もある、と彼の上司は説明したらしい。そこまで分かっていて、Pマーク自主取得に励もうというのである。それに掛けられるスタッフの時間やお金はバカにならない。「ないモノを守る」ために一体どれだけの浪費となろうか? 何度も言うようだが、「ないモノを守る」ってのは並大抵じゃない。それどころか、こうした「真剣なるナンセンス」は、単にエネルギーの無駄づかいである以上に、スタッフの「自由な活動に対する縛り」のようなものとして働くという側面こそ重要だ。
実際、個人情報を扱わないO君の会社の管理職たちが、みな「右へ倣え」となってしまっているように、実行不可能のように見える「管理ルール」の遵法というのは、利潤を最優先しなければならないという(社員の誰もが反論不可能な)企業の論理によって、独特の強迫観念と化す。そして、Pマークがなければ仕事がなくなる!という「根拠なき危険性」は、あらゆる企業をびくびくと脅えさせる。「情報管理を徹底しよう」とか「情報漏洩という失敗は許されない」と正面切って信じる企業が、社員に対してさまざまな自由な活動の制限強いてくることになる。結局の所、その目的が、個人の情報管理よりも、第一段階としてはこれまでにない「企業による社員の徹底管理」である。
昨今では情報漏洩のスキャンダルが目だって報道されている。だが、これが本当のことかどうかは分からないが、情報漏洩事故というものは、以前も今もほぼ同じ数だけ起こっているし、今の方が昔よりひどくなったと言うわけでもないという。そもそも、どんなシステムを構築しても、漏洩というものは「絶対に防ぎきれる」とものではない。これも彼の上司が言ったことなのだそうだ。
情報漏洩して良いと言うつもりもないが、こうした目立った「事件」というのは「情報の保護および管理の徹底」へと世論を掻き立てるための、マスコミ報道による情報操作の一例なんじゃないかとボクは思った。
その社内通達が部署全体に行われたとき、「ウチがそれを取得するのに意味があるのか、そもそも悪法ではないのか?」とO君が上司に追及したらしい。すると、「全くの悪法です。悪法であることに違いない。でも悪法も法だ」と上司は開き直って認めたという。そればかりか、社員に次のことを訊いたという。「仮に情報漏洩事故が起こったとき、Pマークを取得している企業が事故を起こしたときと、そうでない企業が事故を起こしたときでは、どちらの罪が重いと思う?」と。「そりゃあ、Pマークを取得して<安全です>と公言している企業が事故を起こした方が罪は重いでしょ?」ボクは断言した。O君もそう応えたそうだ。すると、彼は言った。「そう思うだろ。それが逆なんだ。普通、ある法律に対してその存在を知っていて起こす犯罪の方が、法律を知らずに起こしてしまった過失の場合より、罪は重く罰則も厳しい。上司も法学部卒らしいからそれくらいのことは知っている。でも個人情報保護法はその原則の逆で、Pマークを取得している企業が事故を起こした場合、Pマークを持っていない企業よりも罰則が軽いことになっている。こんな話は聞いたことがない」と上司も憤慨しながら言ったそうだ。つまり、情報漏洩に対する罰則規定を「Pマーク非取得企業」により重く科すことによって、結果的にPマークへと企業が殺到するように仕組んであるのだ。
そこまで分かっていてO君の上司は、社長のPマーク取得の会社方針に反論しなかったらしい。どうして、会社はかくも弱いのだろう。悪法を悪法と知りながら、「わたしらは関係ないですな」とか「ま、精一杯がんばってみましょ」とか「ちょっと検討してみますわ」とか言って時間稼ぎをする気骨もない訳だ。O君曰く、社長はそもそも社内ではタヌキのくせに、クライアントに対してはそうなれない。「ほんとなら中小企業のオヤジとしての反骨精神を見せて欲しいが、そんなことは発想だにしていない。今からでは遅すぎるのだ」。
おそらく、社長に限らずO君の会社のどの取締役も、こうした悪法が施行される前に、自分の頭でその理由や原因を問うてこなかったわけだ。ま、「忙しい」経営者ならそれが普通のことかも知れない。日経新聞なんかを隅から隅まで読んで、「今後の会社はどうあるべきか」なんてことばかりをいつも考えていたって、「悪法のウラの意味」みたいなことまでは想像だにしてこなかった。悪法を悪法と思わないくらいおメデタイ。来年4月の法律施行がいよいよ近くなったから、やっと「どうやってPマークを取るか」と浮き足だって考え始めたというわけだ。飽くまでも「なんで取らなきゃならないの」とは考えない。
さて。O君の話を総合すると、「個人情報保護」は、企業による社員の徹底管理という方法で「実行」される。しかもその管理ルールは、それぞれの部署が部署に相応しいものを自発的に考えるというやりかたで企業が「自発的」に策定し、それを十分なものであるのかの一定の審査を、然るべき「役所」(「財団法人日本情報処理開発協会」が代行する)から受け、その審査をパスしなければならない。その審査を受けるために必要ドキュメントを揃える準備自体が大変なものだという。分厚いタウンページみたいな厚さになる文書量。そして、運良く審査を通ったら通ったで、今度はその自主ルールを社員達全員で持続的に守らなければならない。だが、「だったらみんなでガンバロー」みたいな姿勢を素直な同僚はすぐに口にしたらしい。
しかも、いつ審査官による抜き打ちの「手入れ」があっても、各社員は、どのような情報管理のルールを自分たちが持っていて、しかもどのようにそれが運営・実行されるべきであるかを即答できなければならないという。速答できないと「Pマーク」は、取り上げられるのだそうだ。まったくやれやれだ。
だが、絶対的なルールをおカミから提示されるわけではない。守るべき最低限のガイドラインが示されているだけだろう。なぜなら、中小の下請け企業が出入り口に磁気スリップ付きのIDカード方式の完備するなんてことは不可能だし(でもその程度のことをしなければ、情報を守るなんて事は無理でしょう)、それぞれの業界文化に相応しい方法をとるしかないはずだからだ。早い話が「個人情報をきちんと守ります」という姿勢を見せることが大切なのだ。
クニも個人情報が守れるなどとは、おそらく思っていない。そもそもクニは、<個人情報の自由閲覧と恣意的利用>を考えてはいても、<個人情報の保護>などに興味はない。しかし、企業や個人からすれば、守るそぶりを見せるだけでもこれだけ大変な労力となる。きっと、今までアタリマエだと思っていたことを会社でやろうとすると、「そんなやりかたで個人情報を守れると思ってるのか?そもそも守る気があるのか?」と管理の目が光るはずだ。あるいは社員同士が互いに目を光らせる。つまり、社員ひとりひとりの、かつてなら大目に見られていた日々のルーティーンが、個人情報漏洩に直接結びつかなくても、「自主」規制される方向なのである。社員が自ら自分の踏む「踏み絵」を作らされるのだ。
この話を聞いていて思いだしたのはこれは“放送禁止歌”の話だ。映画「A」を撮った森達也氏によると『要注意歌謡曲指定』には、そもそも法的な拘束力がなかったが、恫喝としては完璧に機能し、ほとんどのメディアがそれに粛々と従った。クニは規制しなかったが、メディアは自主規制するというからくりになっているのである。
このように、「管理」は、オメデタイことに、何から何までタテマエでは「自発的」に行われるのである。「審査も通さす気はないし、Pマーク取得の意志もない」と言うのは、各企業の自由であるが、それを取得しないために起こる「今後こと」は、企業が自ら「自己責任」で引き受けなければならないと脅される。しかし、脅すのは国ではなく、直接には発注元の大手企業(クライアント)である。
そして、大企業から下請け会社、そしてその孫請けから、おそらく個人事業主まで、ほとんどすべての働く人々は、どこかで、なんらかのかたちで「個人のプライバシーを扱う業種」とつながっている。つまり恐ろしく広い適用範囲の裾野が想像できるのである。一方、実際に個人情報を扱う数少ない大手企業自身は、恐らく官僚によって「関係各社にそのような指導をするように」と指導されている。実に巧妙に仕組まれた、間接的な「クニによる国民」の管理なのである。
彼の上司は言ったという。「ウチの場合、個人情報を守るという体制を築くと言うよりは、企業情報の保護を視野に入れているとも言えます」。語るに落ちたとはこのことだ。つまり、個人情報にほとんど関係のない彼の会社みたいな企業が、これほどまでにやっきになって準備しようとしていることとは、「企業情報」という名の“個人情報”であったのだ。それなら、「企業情報保護法」とか「企業犯罪隠匿法」とか呼んで欲しかったが、法の実態を表す名を付ければ、取材や報道の自由を真っ先奪われるジャーナリストからの反発がもっと大きくなっただろう(実際、法律名は現状のままでも相当数の心あるジャーナリストが反対運動をした)。あくまでも、建前上、守られるべきは「個人情報」なのである。「個人情報は保護されるべき」という主張自体は、個人情報が勝手に流通していることに不快感や不安を感じている一般生活者からの反発は少ない。
そうこうして調べものをしていたら、この「個人情報保護法案」を早く策定しろと言う圧力がACCJ(the American Chamber of Commerce in Japan: 在日米国商工会議所)から内閣府宛に送られていたという記事を見つけた(この在日米国商工会議所とはMasonic Building、森ビル39号内にある)。
| ■ すでに終わってしまったライヴ告知と『歌行燈』 |
| Date: 2004-10-04 (Mon) |
昨夜も、実にわくわくドキドキ、緊張するけど止められない黒井さんとのライヴであった。実に鍛えられた。追い詰められもし、追い詰め(?)もし、実に普段の実力を大いに出し切らざるを得ないライヴのひとつとなった。まったく「ブルーズやってる気はないよ」と言いながらブルーズ責めにしないで欲しい。かくいう私は、教会旋法責めにしたわけだけど。(うっ!ブルーズもゴスペル発と考えれば「教会旋法」のひとつか?)
自慢ではないが、最近のライヴはどれも本当に現在持っている実力を出し切るという意味では、どれも終わったあと後悔がなく、実にさっぱりした「後味」のことが多い。気持ちいいぜ。
bccで皆さんにお送りしている直前ライヴ告知なのだが、今回は2日前くらいに黒井さんとのデュオ・ライヴを告知した。そのメールの中で、最近彼と一緒に観た成瀬巳喜男『歌行燈』を取り上げたので、ここに若干の加筆などを加え、ここにメモ替わりにアップしておくことにする。(だって日記みたいなんだモン)
(貼り付け始め)
「黒井*ナ カ ミ ゾ デュオ」
黒井絹 (声帯と六弦)
ナ カ ミ ゾ(二枚舌管と八十八鍵)
10/3(日)8:00pm
会場:荻窪グッドマン
(2人によるフルのデュオ・パフォーマンスは、今度が2回目。)
実は、昨夜、今度の日曜日に久しぶりに共演する黒井さんが拙宅にやってきて、しばし話し込んでいきました。前回のライヴCDを一緒に聴いて腹を抱えて喜んだり。別に、今度のライヴのための具体的な「作戦」を練りに来たわけではありません。ただ、黒井さんの身に最近起こった「あること」を私の耳に入れるためだったようです。それについては、???・・・ふむふむなるほ ど...と言う感じです。(その話は...おっと興味のある人は黒井さんに直接訊いて下さい。)
その興味深いお話への「お返し」という訳ではありませんが、私は自分の大好きな映画『歌行燈(うたあんどん)』(1943, 監督:成瀬巳喜男 http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000130.htm )をビデオで一緒に見ることにしました。 黒井さんなら劇中の能やその物語の素晴らしさ、そして山田五十鈴の芸に感動し、歓びを共有できるに違いないと思ったからです。
この映画については、いずれ書こう書こうと思っていたんですが、書かず仕舞いできましたが、ようやくちょっと書いてみます。これは、「歌/音楽/芸」 が、人を出会わせたり、殺めたり、再会させたり、結びつけたりするという、 正に人の世の「音楽つながり」「音による縁」の不思議を、実に鮮やかに描いた類い希な映画だと思っていました(黒井さんも「ベスト五指に入るかも」 と言っていましたが、私もそれはまったく誇張じゃないと思います)。これは、とても帝国日本が戦争をしているときに創られたとは思えないほど、「戦意昂揚」などとも縁遠い、純粋に芸道に関する傑作映画です。泉鏡花の原作(私は未読)を元にしています。
映画を見ていて感心するのは、能楽師の身に付いた作法、近親でも節度を保った相互的な礼儀、真に善い芸を見出したときに見せる率直(素直)な反応と互いに払う敬意、理解し合える者同士が集まると自然に始まってしまう即席の音楽行為 (セッション)と言った、あらゆる音楽に関わる者達がそうであって欲しいと思わず願ってしまうような、理想的な音楽の在り方や関わり方が、すべて出てきているような気がするのです。
「歌はこころの外に掲げて道を照らす提灯(ランタン)なんだ」とでも言いたいような映画(原作?)ですが、そこに描かれているような音楽絡みの不思議は、実際に自分の周りでもちょくちょく起きています。でも私の作る音楽がそれを起こしているとは、未だ言えないような...。
さて、今度の黒井絹さんとのデュオライヴですが、そこで作られる音が「歌行燈」ならぬ「音行燈」となって人を結びつけたり出会わせたりするのだろうか、とすでにわくわく期待を感じているのです。
| ■ でっち上げを覆せ、司法よ(どんどんね) |
| Date: 2004-09-30 (Thu) |
田中宇さんの「テロ戦争のずさんさの裏にあるもの」を読んでいたら、「911事件」に関わった容疑で捕まったアルジェリア系とモロッコ系の男たち3人に対する裁判についての記述があった。
「9月2日、デトロイトの連邦地方裁判所は、3人に対する訴えを棄却し、3人は無罪となった。棄却の理由は、検察側の司法省が捜査段階で多くの誇張やでっち上げを行っていたことを認めたため」云々。
米現政権が進めるテロ戦争が杜撰...というか、まったくのデタラメなことは言うまでもない。そして、検察側が嘘を付いていたことも言語道断なことも言を待たないと思う。でも、そういうこととは別に、ふと「デトロイトの連邦地方裁判所には、骨のある法の番人もいるものだな」とか、お愛でたくも思ってしまった。事情はこんなに単純ではないとは思う。とりわけ、無実の3人がハメられたために、すでに3年もの月日を不自由な中で過ごしたことを考えれば。
が、明らかに政府や行政に擦り寄った判決を出したり、現行憲法を無視した判決を平気で出して頬被りしまうような日本で、同じような事が起これば、もっと陰惨で、こう言うわけにはいかない感じがしたんです。ふとね。司法が信じられなくなったら、一体何を信じたら良いんでしょう、僕らは?
| ■ 久しぶりに本気で怒った(悪書評) |
| Date: 2004-09-29 (Wed) |
「悪書の典型」みたいなものに、縁あって接する。『無痛文明論』というふざけた本。
これは、無視しちゃっても良かったのだが、その「縁」を最大限受け止めて、真剣に書いてみた。これについては「Good/Bad Books Bulletin」に書こうと思って書き始めたのだが、あまりに長くなったので「回廊」の方にアップした。
この文章を読んで刺激され、却って「読んでみようかナ」などと言う気をおこす人もなかにはいるかも知れないが、最初にお金と時間の無駄だと言っておこう。単に、近付いても無駄だよという意味で、書いておきます。
「文明論」なら森本哲郎の60-70年代に書いた一連エッセイや読みやすい論考の方が遥かにわれわれの文明を客観視するのに役に立つと思います。http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2004/mutuu_bunmei_hihan.html