衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

橋を渡る(これが夢?)



私はその川を渡るために橋をよじ登っていた。橋ならば普通に歩いて渡れるはずのところを私はまるで登山において最難所をやり過ごすかのように慎重に両手と両足でよじ登っていた。手に感じるその金属のワイヤは片手で握りしめるには太かった。しがみつくにはそもそも低すぎるうえ、そのワイヤの位 置は私の重心より遥かに下にあった。結果、私は腰を丸く前に曲げ、両手を手なが猿の様に下方に延ばし、両側にあるその太いワイヤを探っていた。小さいボートに立ちながら乗っているような不安定さばかりでなかった。建築現場の足場のようなその長く細い通 路は地面に水平に張られているのではなく、遥か天の彼方に達するほどの高みへと延びていた。

この橋を渡ることの第一の困難さは、ただ階段の様に決った角度で、上に延びているのではなく、上に行くほど地面 に対する角度が急になるというところにあった。しかも先ほど言及したように、これは飽くまでも橋であり階段ではないので、通 路が急になればなるほど渡るというよりはよじ登るというのに近くなるわけである。そうなのだ。ここは橋は橋でも橋を吊っているワイヤの部分に特別 に設けられた通路(おそらく建設や修理の際に使われる)という感じなのだ。(当然夢なんだからこの不条理を問うことなどしない。)このワイヤはまず最初に一旦頂上を窮めたら、こんどは急速に下に向かってゆくというわけである。

私はこの頂上で少し疲労が過ぎ去るのを待っていた。頂上のところに設けられている銅製の装飾が緑色に錆びてつめたく光っていた。そのつめたさを顎のところで感じながら、これから待ち受けているであろう先の困難さを想像して少し興奮ぎみに震えていた。つめたい銅製の装飾を手で掴み自分の体重を何とか懸垂の要領で引き上げると今、眼前に戦慄すべき光景が広がっていた。「世界で一番高いジェットコースターのもっとも高いところ」を数十倍にしたような高さ(なんて貧弱な比喩なんだろう)に私はいて、それを這って下りて行こうとしているのである。すぐに私は引き返すことを考えた。そして、体を手で支えながら後ろを振り返ってみると同じだけの高さが下に延びていた。どちらにしても同じ高さを下りなければならないのである。ところが、恐怖で体が凍り付いたようになり、進むことも退くことも出来なくなってしまったのだ。

そこで、いろいろな思案が始まったのである。何にしてもこのような危険なところにずっと留まっているわけにもいかない。戻るにしろ進むにしろ早く決めなければならない。しかし同じ危険を犯すなら、先に進まないのは馬鹿げている、というまともな考えが浮かぶ。ところがである。この橋には今私が留まっているのとまったく同じピークがもうひとつ先に待っているのだ。つまり、ひとたび先に進むことを決心したら、今私が陥っているこの危険をまた再び味わわねばならない。つまり今前に進むことを決心するということはすなわち、同じ危険を近いうちにもう一度通 過 しなければならないことを意味するのである。

しかし今私が味わっているこの危険をあえて、はたして再び選ぶことがこの私に出来るのか。先に進むという恐ろしい考えに思いを巡らしているこの私の目に遠く、もうひとつのピークがぼんやりと見えた。この二つのピークにたくさんの金属性のワイヤがびっしりと集まっていた。そしてそれがこの巨大な橋の重さを支えているのがはっきりと感覚的に理解することが出来た。川を渡るというただそれだけのことに人々がかけた真剣な情熱と莫大な労力を不思議に思った。そしてその実用的な橋の機能を考えるときにどうしてこんな危険を犯してまでこんな高いところに凝った装飾をつけたのだろうとも考えた。

しかしそんなことよりも、いままさにこの危険な場所にこうしてじっとして落ちない様にその銅製の装飾にしがみついている自分も、そんなむかしの人の試みた危険な仕事と同じくらい滑稽に思えた。そもそも何のために川の向こうに行こうとしていたのかという理由も思い出すことがいまの私には出来ないのである。

突然私のこの不安定な状況が開けた。少なくとも以前の頂上にしがみついている状態よりは発展した状況に私はいた。どうにかして、その第一の頂上をおり下り、二つのピークの間のだだっ広い平面 にいた。そこは不思議なところだった。

たくさんの人々がそこには集っていた。様々な格好をした様々な年齢の男女が思い思いのところに陣どってゲームをしたり、ふざけあったり、話をしたりしていた。ここは橋の中間なのにそれと信じられないくらいの広さがあり、しかも考えられない数の人達がどこにも行かずにそこにいた。よく見ると人が腰掛けられるようなコンクリートの段があったりして、そういうところには自由を唄うヒッピーの様な人達が腰掛けて、ギターを持って何かをかきならしていた。仲睦まじい男女が膝枕をしていた。すべては良くなるというようなことを微笑み囁いて。私は驚き訝しみながらこのようなところにいる沢山の不思議な人々を眺めていた。

霧のかかった空のなかに第二のピークが見えていた。

いずれにしても、私があのような思いをしてここにくる以前から、このように沢山の人々が一つ目のピークを、とにかく越えてここまできていたのだ。この事実に私は少なからず驚いていた。しかしまた、ここにいる人達は先に進んで行こうとしているようにも見えなかった。かれらは取り敢えず進むみちを一度は選んだのだ。しかし第二のピークはもう存在しないかのようにこの橋の中間で楽しく暮らしているのだ。

霧のかかった空のなかに第二のピークが見えていた。そして、

そして私は目が覚めたのだ。銅製の装飾のつめたい感触や頂上にいたときの恐るべき体験、そしてひょっとするとそこに留まり続けたかも知れない不思議な橋の中間地点とそこにいた人々。これらすべてが、異常な現実味とともに蘇った。そしてその霧の中に浮かびあがる第二のピークのビジョンがその日一日、私の心を占め続けたのである。

目覚めたその朝、私の悪夢は始まったのであった。


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