衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

つまらなくなったマーラー(マーラーをめぐるとりわけ個人的な所見)

最近、マーラーがつまらなくなった。いまだにマーラーが私にとって特別 であるにもかかわらず、だ。

オーケストラの技術は向上して、どんな難曲といわれるものでも、譜面 になっているもので、音に出来ないものなどなくなってしまった感すらある。そういった状況の下で、マーラーの音楽はもはや本当の難曲のうちには数えられないだろう。

しかし、マーラーが完璧に近く(?)演奏されるようになってから、新しい演奏(録音)で聴いていて面 白いと感じられるものは滅多になくなった。ありていに言うと、「完璧に演奏されたマーラー」ほど聴きたくないものもない。一方で、現代ほどマーラーの求められる時代もない。彼ほどこの時代にマッチした作曲家もいない。マーラー自身がいみじくも予言したように、彼の時代は彼が死んでしばらくして訪れたというのはおそらく本当である。

さて、彼の予言には二つの面で重要なことが含まれている。ひとつは「彼の音楽が音楽的・哲学的な意味で、同時代の理解の範囲を超えていた」ということ。二つ目は「彼の音楽は彼の生前には演奏できないほど技術的に難しかった」ということが挙げられるかも知れない。

「今に私の時代が来る」という彼の意味深長な言葉は、一般 的に前者の意味で捉えられることが多いのではないかと想像する。そうした捉えられ方をされていることに、何の不思議もないし、おそらく当たっているだろうと思う。しかし今回は、敢えてマーラーが後者の意味で言ったのだという前提で考えられることがある、ということを明言したい。

マーラーは指揮者として何が可能で何が不可能かを熟知していた。それでもなおマーラーの音楽が、「彼の生前には演奏できないほど技術的に難しかった」ということは、マーラーが表現したい音の宇宙を妥協せずに譜面 化したということを意味している。しかも演奏家の技術が向上する、という兆候がすでにあったあの時代に、すでにマーラーは、現在のような高い演奏技術の時代の到来さえも的確に予想していた、ということになる。

問題は次である。確かに前述の事実はそれで驚きに値するが、果 たしてマーラー自身もその「高い技術」が、彼の音楽の生命自身を脅かすことになることまで予想していたかどうか。

確かに自身の予言の通り彼の時代は来た。そしてまた彼の音楽に本当の生命が宿っていた時期があったのも否定しない。が、その「期間」は、このままでは、あまりに短かったと言わざるを得なくなってしまうだろう。最もマーラーが演奏され、録音され、聴かれる、ということに関して言えば、現代は紛うことなき『マーラーの時代』である。しかし、マーラーの音楽に生命があった時とは、実のところ、彼が死んで思いの外早くやってきてしまった。そしてそれはあっという間に過ぎ去ってしまった。

マーラーがあの複雑なスコアーを通して表わした世界とは、力強く自信に満ちた精神ではない。彼の世界は、完璧に演奏されるには、はかな過ぎるたぐいのものだったのだ。


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