衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

「目覚めよと呼ぶ声」は花婿を知らせる声

技術に捕らわれてはいけない、熱き男よ。人々の努力は、技術に始まり、技術に終ってしまっている。

私の友人で詩を書く者がいた。彼は実によく言葉を知っており、それらをどのように使えばよいかを知っていた。私から言わせれば、言葉の達人と言ってよかった。彼はある詩の同人誌を持っており、それに投稿することで、表現への意志を満足させていたようであった。知っている言葉の豊かさと出てくる言葉の意外性は、特筆に値するものであった。そのよく練られ、技術的効果 に富んだ文章は驚異的ですらあった。彼の表現への意志を満足させるという努力自体はまったく悪いことではない。それを図ることは彼自身の精神の健康のためにも必要であろう。

しかし私は今日まったく違った次元ことを言おうとしているのだ。私はプルタルコスやプラトンが語った秘儀参入のことや、グルジェフの話した絶対芸術について述べているのだ。聖書に書かれていることや、世界に散らばる伝説や神話の世界について言及すればそれで十分であろうか。またはシャガールがたぐい希なる『稚拙な図』の上にほとばしらせた色彩 のメッセージ、あるいは『一見平板な幾何学的図形』の中に宇宙の総てをこめたカンディンスキー、について言及すれば十分なのか。

ともあれ、人々が大変な労力と研究によって獲得しつつあることとは言わば、霊的な絶対性からは遥か遠いところにいる。これは不幸というよりほかない。いかに創造への意志を満足させようと、持てるだけの技術を奮い、努力を惜しまずに新しいものを造り出したとしても、それは田舎道に無数に転がる小石の偶然的な配置の様なものに過ぎない。もう少しひいき目に書いても、万華鏡の偶然的に造り出す美しい模様の域を出ないのだ。しかしその美しい偶然の模様は中世の洞窟の如き教会の窓を飾ったステンドグラスの色彩 にいかに似ており、美しさの点で同様の効果を持っていたとしても、その人を奥へ引き入れようとする中世美術の興味の喚起力に遥かに及ばない。なぜか。それは意味性の問題である。

万華鏡の美しさは展開の意外さや偶然の造り出せる可能性について示唆深いものがある。しかし人の興味を維持することが出来ない。確かに人が鏡の効果 を利用して「偶然の装置」を組み立てたのであるが、そのためにある種の、謂わば、疑似自然的な美(それは自然というものが、我々にとって預かり知らないレベルでの総ての必然を司っている事実を無視した言い方であるが)を顕現することには成功している。が、現れる模様は初めから終りまで偶然に他ならないのである。そして我々は五分もしないうちにそれに気がつき(あるいは気がつく前に)、飽きてしまうのである。

詩というものは私にとって万華鏡の様なものであってはならない。あるいは「銃に釘を装填し、あらかじめ用意しておいた特性のカンバスに乱射した作品」の様なものであってはならない。持てるだけの言葉を持ち、集めた言葉を自分の考案した偶然装置、すなわち様式/形式といった器の中に容れ、シャッフルして紙の上にざっとあける。詩とはそのようなものでは断じてない。

私にとって音楽は現在のところ、純粋に「音そのものである」という域を出ていない、というのが正直なところであろう。(いや、あるいは「音そのものである」という扱いをきわめることすら出来ない私が、まだその純粋な境地にすら達していないことや、「音そのもの」に対して感じなければならない「負目」なのかも知れない。)それに将来的にも音楽を私にとってそのようなものに思惟的に留まり続けさせる可能性はある。しかし、詩とは秘儀参入を果 たした私の霊的体験を言葉にするということ以外の何ものでもない。私にとって言葉と音が違うというのはこの点である。いわば、詩というものはすでに私にとっては創造への意志を満たすということ以上の意味を持ち、詩創作はもはや私の霊的生活のための手段に他ならないのである。

再びこの世で知人に巡り合えた1993年4月18日に記す


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