衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

テレビはなぜ謝るのか

テレビ朝日の椿前報道局長が前回の選挙に臨み、不適切な報道指示したのではという疑惑のため、政治改革特別 委員会に呼ばれ、「喚問」をさせられたが、その際「不必要・不用意・不適正な発言で迷惑をかけたことをお詫びする」と陳謝した。しかし何のための詫びなのか。公正中立な報道しかしていないのなら、疑われるような事実がないのなら、なぜ詫びなければならないのか、まったく理解できない。

苛めに過ぎない

不公正な報道をしたという事実よりも、前局長が「反自民政権が発足するように、個人的に希望していた」と述べたことを、前回の選挙で敗北した自民党が気に入らなかっただけのことであり、今回の「喚問」も放送業界に対する苛め(いじめ)という風にしか私の目には写 らなかった。 自民党が「テレビ朝日の放送自体が不公正であった」と主張するのであれば、どのような現実の報道が、放送法に反して「不公正」に報道されたかを具体的に挙げて、それを正すことを求めるべきだっただろう。しかし、自民党が国会を使って前局長を「喚問」したのは、報道された事実に対する追及ではなく、むしろ自民党に対して不利になるような報道をするよう「局内で指導を行ったか」、あるいは「局内でどのような指導を行ったか」ということに終始していた。

その質問に対しては「私は指導をしていない」と答えているのだから、それ以上その件で彼自身を追及することはできない。その「指導をしたか」どうかの事実関係の追及を図るなら、局内の他の職員の証人喚問を行なうなどして裏付けをするしかない筈だ。それに、そもそも「指導をしたかどうか」ということは、彼が「話した」事実をどのように解釈するか、という別 の次元の問題でもあるのだ。あるのは彼が何を話したか、である。

また、「自民党独裁を辞めさせて、新しい政治的局面を切り開く必要がある」という局長自身の信念に関しては、全く別 の問題である。この問題で言えば、信念を持つのも思想の自由であるし、その信念を人の前で主張すべきか否かは、彼の言論・表現の自由であり、またさらに、それを今度は再び公言しない自由もある。

あの国会の席上での彼の証言、「『55年体制は絶対に突き崩さねばならない』と語ったのは、選挙当時私が思っていたこと」などの言葉は、まさに彼の信条・思想に関わる事であって、どういう考えを持とうがその自由は、放送局長であろうと、経団連の会長であろうと、内閣総理大臣であろうと、基本的人権によって保障されているはずのことである。ということは、今回の「陳謝」に付随した彼自身による、上記のような彼自身の言葉の引用は、好むと好まざるとに関わらず、強いて述べさせられた、という印象を拭い切ることはできない。

ところが、局長本人が信条・思想の存在を認め、国会の場で述べてしまったことは、かえって自民党による「苛め」の正当なきっかけを与えてしまったようなものだった。報道された事実(実際には何も彼の指導によって不正な報道はされなかった)よりもむしろ「テレビ局の代表である局長ともあろうものが、そのような考えを抱いていたのはケシカラン」と、確信を強めさせただけだった。それは、とどのつまりが今回の「喚問」が事実の追及であったというよりは、同局長の心の内のことを問題にし、「それ見ろ、おまえはやっぱりそういうことを考えるケシカラン奴なのだ」という確認であり、表現・思想の自由を保障するどころか、自民党による睨みを放送界に継続的に利かせる、といったこと以上の意味はなかったのだ。

そもそも政治的に片寄りのない、公正な報道というものが可能なのか、ということを問うこともできる。どういう報道をすれば、それは公正は報道と言えるのか。しかし、「どうすれば、自民党は不服を言わないのか」という処世術の方が日本では重要なのであろう。

さて、私はアメリカのように各局や各紙が、それぞれの議員の候補者を大々的に押して宣伝するようになればよい、と主張している訳ではない。日本の法律に放送法があるのは、アメリカのように、放送局が完全に政治の道具に堕ちてしまわないための一種、歯止めとしての機能を持ちうることに違いない。

ふたたび、なぜ?

さて、再び話が戻るが、どうして、信念を持った局長が国会で「不用意な発言だった」と陳謝しなければならないのか。何に対する陳謝なのか。謝ったということは、何か不当なことをしたということなのか。当時、「55年体制は絶対に突き崩さねばならない」と考えていたのは繰り返すように、思想・信念の自由である。報道局長であったら、自分の考えを抱いてもいけないことにはなるまい。自ら自分の行いの不当性を認めたということなのか。もうまったく理解の範囲を超えているとしか言いようがないではないか。(自民党が馬鹿なら)馬鹿な局長!

「自民党が不利になるような報道を行うように指示したかどうか」というのが、今回の承認喚問のポイントであったようだが、さて、百歩譲って仮に彼がそういう「指導」をしたとしても、それだけで放送法に反するかどうか、判断できないはずである。つまり、「間違った指導」を局長がしても、放送局自体が、そのような報道をしない、という場合もあり得るからだ。問題は、テレビ朝日が放送局として「不公正・不適切な報道」を実際にしていないのであれば、どんな会話が放送局内でなされようが、違法との判断は下せないはずである。

それに対して、あろうことか連立与党側も「テレビが前回の選挙を自民党敗北に導いたと考えるのは、放送業界の思い上がりかもしれない」と、まったく的の外れた評価をしている。この際、今の連立与党は「かつて自民党が放送業界に報道統制のための圧力を掛けていた」という事の方を追及すべきであったわけで、今回の証人喚問の際も一切質問をしなかったかったその事態や、言論の自由を制限するような、かつての与党のやり方にメスをいれるべきだったのにそうしなかったというのは、残念としか言いようがない。

陳謝は、私の目には「ともあれ自民党さん、もう苛めないでください」という風に写 った。「私がどんな違法なことをしたのか」ということを問い返すよりも「とにかくもうこれ以上痛めつけないで」というお願い、という風にしか理解できなかった。

しかし、それでは自民党の欲しかったことのほぼ100%を与えたようなものだ。自民党の必要としていたのは事実ではなく、「悪うございました。反省しています」という態度の方なのだから。

国会の逓信委員会に舞台を移して、民法連やテレビ朝日からさらに事情を聞いて、放送法に違反がなかったかを追及するらしいが、それは苛めの延長にすぎないではないか。そのようなことを追及する資格が、今の自民党に本当にあるのか。そうした聞き取り調査を彼らが進められるというのなら、今の連立与党も自民党のやりそうな「言論・表現の自由を制限する圧力」の調査を進めるべきではないのか。

日本人は、相変わらず物事の本質を問うよりは「悪うございました。反省しています」という態度の方でその人を判断するようだ。何がいけなくて何が良いのかというような本質的な議論は成り立たない。しかし、今の細川氏も自民党の歴代総理大臣にお顔を「お伺い」に行くようでは、そうした厳しい追及をするというタマではなさそうだ。「苛め」は素直に受けるが、誰が苛めているのか声高に主張できる人は今の連立与党の中にもいないようだ。

10/25/93 後日談

私は子供の頃、国会中継などを見ていて、大人というのは賢くて子供に理解できない、複雑な問題を始終話して時間を過ごしている、という漠然とした印象があったが、あの国会の喚問を見て大人(日本人?)のレベルというものを本当にかいま見た気がした。「恥ずかしい」というのが一番大きな感想だった。やつらは本当に下らない連中なのだ。これは私が日本の外に出て、そういうセンスを身に付けたからなのか、私が年齢とともに賢くなったためかは知らぬ が、ああいう連中が日本の代表面をして政治をやっている、という事実を見て、しかもそれを看破することができたのは「嬉しい」としか言いようがない。


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