衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

“寒さに凍える”文化(あるいは単に「ヒーターが壊れた!」)

昨年の年の瀬に壊れたヒーターがようやく修理された。こうして、またしても私は『文化の違い』を認識することを再び迫られたのだ。

ヒーターが壊れたとき、ちょうどクリスマス・ホリデイに入っていたので、アパートのスーパーインテンダント(管理人)はいなかった。そんな訳で修理を3日以上待ち、ニューヨークの町ぐるみの暖房がどれだけ有難いか、身にしみて理解するはこびとなった。

なにしろ、このクリスマス・ホリデイに入ってからというもの、突然寒さが極端に厳しくなっていたのだ(最高気温マイナス7度、とかね)。ちなみにハドソン川のある西側に面 している私の部屋は、広大なニュージャージーを経てびゅうびゅうと吹いてくる冷たい偏西風をまともに受ける。私は寝間着の上からトレーニングパンツを重ね着して上は一番厚手のシャツに外出用のセーターを着込んでさらにそのうえから冬用のガウンを羽織り毛糸の靴下を2枚重ねにするというようなまるで『日本の冬』のような格好を数日間強いられたのだ(あろうことか悪いことは重なるものでその頃私は「生まれて初めて」というようなロー・バック・ペインにも悩まされ始めていた)。

市内のアパートはスチームによる暖房がニューヨーク・シティーの条例で定められているので、ランドロード(家主)はアパートのどの部屋にもヒーターをプロヴァイドする義務を負う(ニューヨークのアパートは、家主が冬の暖房以外に冷蔵庫と温水を用意することになっている)。ほとんどのビルは大概の場合、地下のボイラー室で集中的に暖房を行い、各室にスチームを送る。スチームを各部屋に送るというシステムはパイプを使って行われるので、構造的には単純である。地下のボイラーが壊れでもしなければ、まったく暖房が切れて凍えるということはめったにない。が、うちのビルのようにそのスチームがそれぞれの部屋で電気制御されファンで送風する、なんていう場合は、電気系統の故障がヒーターをまったく働かなくしてしまうなんてこともあり得るのだ。

ところで、暖房費を節約するために、ランドロードがボイラーの温度設定を低めにしたり、悪質な場合、まったくスチームを送らなかったりするということもあるらしい。冬の寒さが厳しいニューヨークではそれは洒落にならないほど厳しい。デパートに行って石油ストーブを買おうッたって品物はないぞ。灯油なんて第一どこで買うんだ?まあいいや。

地下鉄の広告の中には、例えば、そういった暖房に関するトラブルを強制的に解決する、といったものさえあるのだ。つまり直接、市の行政官をアパートに送って暖房の状況を調査し、場合によっては強制的に暖房供給をさせる、というエージェントなのだ。「もしあなたが寒さのため、ベッドの中でセーターを着て震えているなら、われわれに電話してください。36時間以内に解決します」。

わたしは、うちのインターホンで下のガードに電話して、何とか修理のためのアポイントを(クリスマス以降だが)取ることができた。そして待つこと2日でようやく直してくれた。モーターがイカレていたのだ。スチームの配管ではなく「電気系統の故障」だ。部屋の隅々に送られる熱風を体全身で感じながら、改めてニューヨークでアパート側の用意する暖房の有難さを身に染みて認識した。そしてガウンを脱ぎセーターを脱ぎトレーニングパンツを脱ぎ、徐々に「寝間着とティーシャツ」という冬のニューヨークの標準的な格好に移行していった。

友達に今回の苦労話をした際、日本の冬の寒さということに言及することになった。ニューヨークほどではないものの、冬の東京も寒くないわけではない。しかしそうした気候上の差ではなく、「文化的な寒さの違い」というものが私の今回強調したいところだった。日本は「文化的に寒い」国なのである。

日本では20世紀になってからでも、全般的に昔の暖房とそんなに変わってはいないところが多いだろう。「人間のいるところだけ暖めればよい」というのが日本の暖房のコンセプトである。新しい住宅では、徐々にセントラル・ヒーティングというものが当り前になりつつあるようだが、住宅全体を暖めてしまうというようなことは「贅沢以外の何モノでもない」という考えが未だ根強い。一見してそのような方法は遅れている、と思われがちだが(実際、私の日本語の教え子の一人で日本に2年ほど滞在していた生徒は、そう私に主張した)、暖房が「コンセプト」として存在するということは、それを「文化」と置き換えてもよい、ということだと思う。つまり「ある程度、冬は寒さに凍えるべし」というのが日本での考え方なのだ。あるいはそれは通 常「習慣」と考えられていることかもしれない。

友人に「日本の冬は寒い」と説明した。何しろ、「みんなのくつろいでいる居間や寝室だけを暖めるのがわれわれの普通 のやり方で、その中でもコタツは最も局所的な暖房の例である。あの狭い空間で家族4人が親密に暖まることができる。それにこれは実に低燃費の暖房方法だ(Economic and highly efficient)。また、ストーブが暖房の中心なので、寝ているときに使うのは単純に危険である」と説明する。しかし、話が「だから冬は朝起きるのがおっくうで、なかなかフトンの中から出られない。冬はコタツから出て、寒いお手洗いに行って脳卒中で死ぬ 人もいる(During winter, some die by stroke in their bathrooms because only the rooms they get relaxed should be warm.)」というところに及んで、友人から「馬鹿げてる。That's ridiculous! Is your country in the 20th century yet? 」と驚かれて、残念ながら、それを「文化だ」と考えて貰えなかった。

いずれにせよ、石川初氏がいみじくも言ったように、確かに「文化には理屈で割り切れないところがある」ようである。日本人は家全体を暖房することを「贅沢である」とし、朝は寒さに凍え、(トイレで死ぬ かもしれないのに)敢えてその「文化」で頑張り通す。それは“冬の凍えの美学”とでも言うべきものだ。

ところで、寒さの厳しい韓国にはオンドルという独特の暖房のコンセプト(ぶんか)があるそうだ。一種のセントラル・ヒーティングとでも言えそうな暖房方法らしいが、韓国人は伝統的にはオンドルには木炭を使う(使った)そうだ。どこかで木炭を集中的に焚き、その熱くなった空気を家屋全体に廻す、というちょっとソフィスティケートされたシステムであるそうな。しかし、その便利なオンドルも、木炭の使用を誤ると一酸化炭素を大量 に放出し、そのため「一家が全滅ッ」という様な悲劇も毎年何件か起こる(起こった?)という。だからといって韓国人がオンドルをやめたという話は聞いたことがない。

簡単にやめられないとしても、私はそれを理解することができる。「ぶんか」というものにはどうも外国人には理解できない部分があるのだ。なにゆえか、私はそういったやめられない習慣・文化というものにシンパシーを覚えずにはいられないのだ。「ぶんか」はそう簡単にやめられないのだ。やめてたまるか。

(と、キーボードを打ちつつ、私は敢えてティーシャツの代わりにセーターを着込んだり、ヒーターを止めようなどとも思わないのであった。)


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