衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

20代最後の記について(98年12月)/「衒学者の回廊」序文

石川 初

アメリカで数年間生活したという経験は、おそらく今後も僕の人生にとって無視でき ない重要な一部分になり続けるだろう。この経験は僕の世界観を変え、その後の生活、 大袈裟にいえば人生を大きく変えた。

この期間中、僕がおそらく最も時間と体力を費やした作業のひとつは、「書くこと」 だった。在米した3年間、それは実に「書く」日々だった。生まれて初めてのアメリ カでの一人暮らしを始めながら、買い物や食事や自動車の運転などについての日常的 なことや、街の様子や人々の様子、思い至ったそれぞれの文化の違いや特徴について、 歴史や世界や人生について、最初はレターサイズのレポート用紙に、次いで、やっと の思いで購入したMacintosh SE/30に漢字Talkを載せて、僕は書いた。パソコン通 信 で書き、報告書で書き、電子メールで書き、中溝に書いた。

大学時代、さらには就職してから渡米するまでの4年近く、僕はあまり文章を書く習 慣がなかった。おそらく、最もまとまった形で残されている僕の文章は卒業論文だろ う。ところが、在米中の3年間に書いた文章の量は、膨大な文字数であって、帰国し てから書いたものを全て足してもこれほどの量に達していないはずである。

僕をこれほど、書く日々へと追い込んだものは、ひとつには会社の要求によるものだ った。「研修生」としてセントルイスへ派遣された僕には、半年に1度、東京へ研修 報告書を送るという義務が課されていた。渡米する直前、参考のために閲覧した、会 社の資料室に保管された以前の研修社員の報告書は実にインテンシブなもので、僕は これに恐怖し、いわば「書く」覚悟を決めて研修に臨んだのだ。

初めて手に入れた僕自身のパーソナルコンピューターも大きかった。8メガバイトの RAM、80メガバイトのハードディスク、68030プロセッサという、今思えば 非常にささやかな性能のパソコンだったのだが、何かを考えながら書くという行為を 補助する道具としては、それはとてもよくできていた。書きやすいペンを手に入れた ようなもので、これが書く作業を楽しくしたということは大きい。

中溝という書き手/読者を得たこと。スマート通信という発表の場を持ったこと。書 くことによってさらに考えるという効果もあったし、お互いの文章によって刺激を受 けることもあった。

日本語そのものにいささか飢えていて、すぐれた文章を読み、書くことがそれを満た してくれるということもあった。 そして、20代最後の数年間、アメリカで一人暮らしをしているという状況は、なん と多くの題材に満ちていたことだろう。

最初のアメリカでの驚き。僕がアメリカに対して抱いていた想像と、体験しつつあっ た現実との落差の、目眩がするような思い。異なる文化の中で、日本という国家、民 族、文化、いままで深く考えてこなかったものを形にし、言葉にし、英語にしなけれ ばならないという状況の中で突き当たった一種のアイデンティティ危機。良くも悪く も、アメリカの文化や生活習慣の「説得力」。

この驚きや感動や、困惑や怒りを誰かに伝えたいと思い、また何かに記録したいと思 っていたのだ。

コンピューターのセットアップのし直しのためにハードディスクの整理をしながら、 古いテキストファイルを開けて、あちこちと読み返してみると、あのころの興奮が蘇 ってくる。

この、精神的な自主トレーニング期間に、僕はかなりの射程距離のある世界観を身に つけ、それによって今の生活を乗り越えようとしているような気がする。この期間に 養ったスコープは、今後も僕を支え続けてくれるだろう。帰国して3年が過ぎ、在米 期間と同じような時間を東京で過ごしたわけだけれども、在米期間に蓄えたものの量 はこれからもっと、たとえは10年や20年以上に渡っても使い果たすことのないよ うなものであるだろう。

書くという行為。あらゆる意味で、それは僕の思考を鍛え、漠然とした思いに形を与 え、反芻してきたのだ。 書き続けなくてはならないだろう。そうして、自分の思いを確かめ、形にして残して いかなければならないだろう。書くことで僕は自分を叱咤し、キーボードを打ちなが ら怠け者の自分をひきずり進めるのだ。


© 1993 ISHIKAWA Hajime