衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

霧笛の王者(散文)
君はそれで「無敵」になったことが分かったが、私は「霧笛」になった。 天才は、天真爛漫である。だから、与えられた「種目」は全部こなす。彼が「練習」を大切にしていることも知っているし、彼が並でない「良い弟子」であることも知っている。私は、しかしその「種目」がつまらんと言っているのだ。「鞍馬」のどこが面 白いのか。「滝」は止められない。だから、その滝を「怒る」気もない。滝が止められないのは、私が「アトラクティブ」でないからだ。それだけだ。 いや、これは話が違うな。滝は「あってあるもの」で、それに憤ることは、「−−」に憤ることなのだ。「天に唾すると自分の顔にかかる」とか言うだけの問題ではない。 私は「華厳の滝」を見に行くが、それは「4月30日午後8時の華厳の滝」を垣間みに行くだけだ。滝は私が行っても行かなくてもそこにある...らしい。でも一方で、私は季節を通 じてその「滝」を知っているのだ。「糠に釘」「なしのつぶて」「暖簾に腕押し」「もう1回最初から話そうよ」。あきらめの悪い私は、救いようがなければないほど、「言葉」と共にその人の「土俵」まで降りてきてしまうのだ。私にとって、その傾向が「問題」でもあり、わたしのどうにもならない「長所」でもある。 「そんな吹き方したら、ズージャになっちゃう」のが「クラシック音楽」ではない。「ズージャ」でないのが「クラシック音楽」なのでもない。むしろ、「ズージャでない」事の方が問題なのだ。それにしても「ズージャ」って何だ。ジャズは、「スイッチが入っているか、入っていないか」のふたつしかない。それは「お湯に浸かって、気持ちよがっているか、お湯から上がってしまったか」の違いしかないと言うのと同じだ。「お湯に浸かる」のに始めも終わりもない。「お湯に浸かる」「お湯から出る」そのふたつがあるだけだ。君が「出たいとき」にジャズは終わる。でも、それは「終わった」のではなく、君が「終わらせた」に過ぎない。 そうそう、「ジャズ」には幸い、終わりと始まりが「設けてある」と言うことを言及するのを忘れたがね。

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