衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

非日常なんかクソくらえってんだ
駆引きもゲームもない、日々の日常的共有がしたい*。それだけが、僕の望みだ。

何というマイホーム主義かと罵られそうだが、日常/非日常の問題は、僕にとって彼女との問題ではなく、自分自身の日々の問題にすぎないのだ。普段、非日常の中に身を置き続けようと勝手に思っているのは自分自身であるが、二人の間の非日常は、僕にとって男女関係のエッセンスではない。僕の必要としている非日常とは僕自身の「勝手」なのだ。

*しかしその「日々の日常」って奴が癖ものである。

かく言う僕もフラミンゴが求愛活動をしているような、あのほろ苦いような状態、あるいは酔うような甘美さもじゅうじゅう知っているつもりである。あたかもそれが、人生の一大事であるかのように思えるほど頭をしめ、胸も苦しくなるような想いに夜も眠れなくなる。しかし、それでもこの求愛活動はその後にやってくるべき期待される日常への一ステップに他ならない。が、僕が彼女との関係で求めているのは、ワクワクするような都市での非日常的体験というよりは、静かで次に何をしようかなどとすら考えない、のんびりとした日常である。

いや、これは言葉の使い方がおかしいぞ。これは正に僕にとっての非日常なのだ。お願いだから、一緒に何の変哲もない普通 の料理をして、食事を供にしたい。一緒にどうということもない買物がしたい。そして、これらが「僕」にとっての耐え難い〈日常〉と化したとき、はじめて非日常を二人で考案しようと思う。

いやあ、何が日常で何が非日常なのかは人によって、よっぽど違うのだろうね。


© 1993 Archivelago