衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

不幸せという名の梯子を登る

わたしはその梯子を登るのがすきだ。何といわれようとそれがすきなのである。なにしろ何かを知ろうとすることがすきなのだから手に負えない。しかし、その不幸せの梯子の一番上に、本当の幸せの境地が待っていると思い込むことにしているのだ。

物事って奴は、知れば知るほどに相対化への道を辿る。相対化とはつまり絶対化の逆だ。当り前か。つまり、絶対的なことがこの世からなくなってゆくというプロセスが相対化への道、というわけだ。

宗教は集団の見る幻想のもっともエッセンシャルなものと言えるかも知れない。そして、経済一般 を支えている貨幣も宗教と同じ集団の幻想によって支えられている。そして、芸術でさえ、判る人によってのみに支えられる作法と形式の集大成であり、中心実体のない、ドーナツの様なものである、等等。

こんなことは私にとってなんら真新しい話題ではない。しかしだ。今になって幸せとは何か、どうしたら個人の幸せというものは可能なのかという、別 の設問を考えたとき、その問題、すなわち我々が統べからく持っている幻想についての考察が再び亡霊のようにわたしの前に立ち現れるのである。

「何を言われようが俺はすきなんだ。ほっといてくれ」というのが、もっとも幸せな状態であり(ひょっとすると幸せから不幸せになる瞬間の叫びかも知れないが)、それを訳の判った「理解者」がやってきて、その幸福状態を壊すのはもっともセンスに欠いた、野蛮な行為なのかも知れない。

実はなぜそういう幸福な者達が問題になるのか、というと理由がない訳ではない。幸福者とは集団幻想を抱いている、社会のインサイダー達である。勿論、彼らは自分達が幻想を抱いていることを知らない。さて、その中のあるものは積極的に社会の通 念を造りだし、それに人を従わせ、あるいは型にはめようとするだろうし、あるものは(それが社会の形成者のほとんどであるが)の単なる通 念への追従者であるかも知れない。しかし、そうしたインサイダー達は社会の内部に於て絶対的なマジョリティーであるために、そうした社会規範にそぐわぬ 者に対して、当然、秩序の破壊者(もしくはその予備軍)として映る。そうした集団幻視者であるかれらは、決ってその具体的象徴である、偶像をもち出すという傾向にある。

集団幻想を高揚し、その絶対化を押し進め、堅固なものにするものが、様々な種類のセレモニーであり、祭である。お祝いや、「おめでとう」や「万歳」などという言葉もそうした集団幻想の固定化に一役も二役もかい、ここぞというところで登場するのである。


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