衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

文化の日々

石川 初

「文化について」というような議論をするとき、まずしておかなければならないのは「文化」をここでどう定義するかという確認の作業である。そうしないと、基本的な部分で議論が擦れ違ったまま、何も生み出さないという事になってしまうことがあるからだ。しかし、いくら言葉が恣意的なものであるとはいえ、「文化」とは、「熱すぎるフライパンで肉を取り返しがつかないほど焦がしてしまうこと」という意味だ、などと定義しては、なんとなく話しにならないような気もする。電話での会話で、「俺、昨日の夜、文化しちゃったよ(昨夜、熱すぎるフライパンで肉を取り返しがつかないほど焦がしてしまったよ、という意味)」などという文句が出てくるのはそれはそれで楽しいかも知れないけれども、これでは僕の書きたい内容の文章にはなりにくいからです。

そこで、むしろ、僕が「文化っていうのは」と発言するとき、それがどのようなものを指しているのか、という分析をし、ひるがえってそれをこの文章における文化の定義にしてしまえば、一石二鳥というものだ(どうして一石二鳥なのか、と深く追及してはいけない)。

文化には、固いものと柔らかいものと、二つの側面がある、と僕は思う。固いもの、とは、例えば都市や建物や公園や彫刻や絵画や服装や道具や、あるいは音楽まで入れてしまってもいいかも知れないが、そういう、写 真に撮る(録音する)ことのできるものである。

一方、柔らかいもの、とは、社会構造とか人びとの習慣とか、神話とか伝説とか特有の世界観とか宗教とか、そういうもの。コンピューターのハードウェアとソフトウェアに例えてもいいかも知れない。

実際には、この二つは実に複雑に関わり合っていて、一体をなし、個別に論じることは難しい。けれども、こうして分けて考えてみるといろいろと興味深いし楽しいのだ。

実は、このあと、文化は相対的なものであると言うこと、相対的なものである故に異文化の目を通 してみることが文化を新鮮な驚きと共に理解することができるという点で有利であるということ、さらにここから、例によって「だから異文化に身をおいている俺達はアドバンテージな奴らなのさ」という自画自賛をして締めくくろうと思っていたのだが、ここまで書いてみて、ふと思い付いたことがある。

魚が一匹、与えられたとしよう。地球上の様々な地域の出身者がそれをどのように扱うかという思考実験である。スカンジナビアの人は燻製にし、日本の人は刺身にし、イギリスの人は油で揚げるかも知れない。このとき、日本以外の人が刺身にしなかった、という点において、日本の人が刺身にしたという行為が区別 される。文化の認識とは、実はこのようなものではないだろうか。


© 1993 ISHIKAWA Hajime