衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

完結する「幸福」

石川 初

「不幸梯子」で述べられている「幸せ」とは、自己完結に他ならない。「幸福である」ことと、「完結している」ということは密接な関わりを持っている。完結しているものは幸福である。すなわち、幸福であろうとするとき、完結することこそはほぼ確実に幸福たり得る在り方である。つまり、ここで述べられている幸福とは、完結しているという状態による類の幸福なのである。

映画「ジュラシック・パーク」をみるとき、恐竜たちのキャラクターにおいて好対称をなしていたのは、穏やかで満ち足りた草食竜と、攻撃的で飢餓感さえ感じる肉食竜だった。完結した幸せ、という視点をここへ持ち込むと、どう見ても草食竜の方が肉食竜よりも圧倒的に「幸せそう」である。 (ここで、だから皆、今日から菜食主義者になろう、菜食こそは幸せへの鍵である、という結論を記してこの文章を締めくくってしまってもよさそうではある)

草食竜が幸せそうに見えるのは、彼ら(彼女ら)が生において一見完結しているからだ。あの島の森林に身を置き、樹の葉を食んでいる限り、彼らは没目的的に存在することができる。その生活圏において生を支えるものは足りており、それを脅かすものは少なくとも彼らの思考の届く範囲に存在しない。一方で、肉食竜を不幸せ(あるいは少なくとも「幸せそうでない」)に見せているのは、彼らの飢餓感である。彼らの生を支えるもの、つまり「獲物」は、地面 に根を生やして食べられるのを待っているわけではなくて、ダチョウのように長い足で草原を走り回って逃げつつあるからである。やれやれ、彼らはその思考の届く範囲において、ほとんど常に不足している。

しかし、厳密に考えるなら、草食竜の「完結した幸せ」もまた、確固としたものではないのだ。彼らとて、種を保存し維持するという方針に従わないわけにはゆかず、あるときには伴侶を探し、あるときは病に悩み、いずれは死の苦しみと闘わなければならない。映画の画面 で彼らが幸せに写ったのは、彼らの幸せな瞬間を画像が捉えたというだけなのだ。彼らの「一見完結した生」は、あくまでも「一見」に過ぎない。

「幸せな映像」という主題から思い付くのは、「母子像」である。キリスト教文化圏で何十世紀にも渡って描き続けられてきた、聖母マリアに抱かれた幼児イエスの像は、おそらく、あらゆる絵画の主題のなかで最も幸せなもののひとつである。不安の入り込む隙間もなく、母親の微笑みは抱いている幼児に注がれている。この主題によって述べられていることは、いわば「完全な愛」とでも言うべきものであり、それこそは画家たちを使って教会がが繰返し示そうとしてきたものに他ならない。(幼児キリストの2のサイン、についてここであえて言及はすまい。話しがややこしくなるからです)愛が完全であり得ているという意味で、この映像は、実に、完結した幸せの図である。

しかし、残念なことに、「変化」と「進歩」が同義語でなかった中世の農民たちでなく、ことに現代の変化する時間性の中に生活する我々にとって、固定された幸せの瞬間を「永遠」と言いくるめてしまおうとするメッセージは、既に説得力を失っているのである。What a shame.

母子像の前に立つとき、我々は、この幸せな母子たちが、次の瞬間、赤ん坊が空腹に泣き出して、「完全な構図」を台無しにしてしまうかも知れないことを知っているし、赤ん坊は日々成長を続け、やがて自我を形成して、母親への「愛」と自分自身で対決しなければならないことを憂いてもいる。実に、母子像の完全さとは、赤ん坊がその責任において母親を愛しているわけではない、という、人生のなかで言わば特殊な瞬間においてのみ実現し得る、「母親の一方的な愛」の図なのである。この主題は、人生の場面 から時間を排除した「凍結した絵画」において示すことができるのみである。

話しがどんどんそれて行くのだが、思い付いてしまったものは仕方がないから書いてしまおう。「破壊者」あるいは「解体者」がやってきて、という、まるで中溝の文章のような話しである。美術館で、「聖母子像」を前にし、ことさら聞こえよがしに、「This picture is just faking a perfect happiness. If it's real, in the next moment, the baby's gonna start crying for food and drunk Josef'd shout like "Take the goddamn baby out!" and the mother screams back. Eventually, the baby grows up, starts hating the mother anyway.」(英語でしか、味わいを伝えられない雰囲気というものもあるのだ)ちょっと調子に乗りすぎたが、まあそんなようなことを言うところを想像してみよう。周囲の鑑賞者に不愉快な顔をされることは想像に難くない。

ニューヨーク近代美術館でなら、美術学生風の若い女性が、軽蔑したように「What's your problem ?」と言い捨てて歩き去るかもしれない。セントルイス美術館でなら、中年のおじさんやおばさんが直ちに取り囲んで、しつこく、こんこんと説教するかもしれない。ミシシッピー州ジャクソン美術館でなら、出口の階段で後ろから射殺されるかもしれない。(サンフランシスコ美術館でなら、いきなり肩をやさしくつかまれて、背の高いお兄さんに、「Don't you agree there is no perfect love between male and female ?」とささやかれるかも知れない)まあしかし、いずれにしても、ここで、非難をうけているのは、「完全な愛、しあわせの瞬間を凍結しよう」という意志への冒涜の態度に対してなのである。

(つづく) メモ

・「幸せの瞬間を永遠へ昇華する幻覚装置」を開発し続けてきたのは、教会である。しかし、時間性を超越するかのような視点を提供しつつ、なお足元に時間から離れられない接地点をひきずっているところに、おそらくキリスト教の最大の歪みがある。この歪みは、完全な幸福の地、ユートピア建設へのエネルギーともなり、十字軍やアメリカ建設やミッションや人民寺院の運動を生む。

・生物を含む、時間内に「存在するもの」は、宿命的に「不幸への階段をのぼる」存在である。つまり、不幸の階段をのぼるのは本来的なありかたである。

・現代の資本主義/欲望至上主義/消費社会において、「凍結した幸せに眠る」ことは無自覚に宣伝媒体の戦略に乗せられることでもあるが、一方で宣伝媒体は「解体者のもたらす不安」を巧妙に用いて、大衆の消費活動を刺激するという戦略も持っており、我々はこうしたジレンマに陥る。

・我々が最終的に関心をもつのは、どうしたら我々がしあわせであることができるかと言うことであり、おそらくそれは、「破壊/解体/解読の楽しみを共有する」ということかもしれないのである(NY−STL長距離電話の正当性)。


© 1993 ISHIKAWA Hajime