衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

「日常」の非日常について

石川初

デートとは意図された非日常体験である、という僕の文章に対して、彼が応じてくれた文章の内容をきっかけに、日常と非日常について、考えようと思う。

彼は「いわゆる非日常」というものを希求することはもうこりごりだ、という表明をし、彼が欲しているものは実に安らけき日常に他ならない、ということを述べている。

ところが、同時に彼自身も認めているように、彼は、既にそうした「日常というもののイメージ」が彼にとっての非日常であるというジレンマに陥っている。つまり、彼の現在の状態から思い描く「日常」は、思い描いた途端にその日常性を失うのである。

ここに日常の持つ宿命的な逆説性がある。僕らは自分達が日常のなかにいるとき、それを日常として認識することができない。僕らは非日常を通 じてしか、日常というものを実感できないのだ。実に、日常というのは、それが欠落したときにその存在を知るという類の、悲劇的な認識を強いられる性質のものであるのである。つまり、非日常という概念が、「日常でない」を意味するということにおいて、ある状態に対して日常という定義がされたときに同時に非日常が規定される、というのが定義の順番ではありながら、実は僕らの認識のしかたという点では、非日常が規定されたとき、同時に日常が規定されるといういいかたの方が正しいのだ。

ところが、ここに先ほどのジレンマの入り込む隙があるのである。なぜなら、いま述べたように、僕らは非日常のなかにあってはじめて日常を思い浮かべることができるにも関わらず、日常は思い浮かべた途端に非日常へとその本質を転じてしまうからだ。さらに、僕らが本当に日常のなかにいたとしても、僕らはその状態を日常であると捉えることができない。つまり、僕らはついに日常について語ることができず、むなしく「日常という名の非日常」について語ることができるのみなのである。

 

Macのある日々の宿命的逆説性

デートとは意図されたMacのない日々体験である、という僕の文章に対して、彼が応じてくれた文章の内容をきっかけに、Macのある日々とMacのない日々について、考えようと思う。

彼は「いわゆるMacのない日々」というものを希求することはもうこりごりだ、という表明をし、彼が欲しているものは実に安らけきMacのある日々に他ならない、ということを述べている。

ところが、同時に彼自身も認めているように、彼は、既にそうした「Macのある日々というもののイメージ」が彼にとってのMacのない日々であるというジレンマに陥っている。つまり、彼の現在の状態から思い描く「Macのある日々」は、思い描いた途端にそのMacのある日々性を失うのである。

ここにMacのある日々の持つ宿命的な逆説性がある。僕らは自分達がMacのある日々のなかにいるとき、それをMacのある日々として認識することができない。僕らはMacのない日々を通 じてしか、Macのある日々というものを実感できないのだ。実に、Macのある日々というのは、それが欠落したときにその存在を知るという類の、悲劇的な認識を強いられる性質のものであるのである。つまり、Macのない日々という概念が、「Macのある日々でない」を意味するということにおいて、ある状態に対してMacのある日々という定義がされたときに同時にMacのない日々が規定される、というのが定義の順番ではありながら、実は僕らの認識のしかたという点では、Macのない日々が規定されたとき、同時にMacのある日々が規定されるといういいかたの方が正しいのだ。

ところが、ここに先ほどのジレンマの入り込む隙があるのである。なぜなら、いま述べたように、僕らはMacのない日々のなかにあってはじめてMacのある日々を思い浮かべることができるにも関わらず、Macのある日々は思い浮かべた途端にMacのない日々へとその本質を転じてしまうからだ。さらに、僕らが本当にMacのある日々のなかにいたとしても、僕らはその状態をMacのある日々であると捉えることができない。つまり、僕らはついにMacのある日々について語ることができず、むなしく「Macのある日々という名のMacのない日々」について語ることができるのみなのである。


© 1993 ISHIKAWA Hajime