衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

中溝とはなんであったか

僕にとって、出会った頃の中溝はなんであったか。 これは別に深い考察ではなく、ある友人との出会いというような、まあ手記みたいなもんです。

何故だかわからないが、高校から大学にかけての年齢というのは、いわゆるオトナになった人びとが暗黙のうちに了解し、前提としている諸々の事実や世界観などを非常に熱心に批判し検討する時期であるようだ。やがてそれを受け入れてゆくことによって、社会に参加することになり、振り返ってみて実はその時期にすでにそれら許し難いと思っていたものの恩恵を享受していたということに気がついたりするわけだけれども、少なくともその時期は、僕らはこの世界はそのままにしておけないもので満ちており、それに気がつかないのはただ無知なのであり、それを変えることができないと思い込むのはただ怠惰なのだ、と信じていた。それは僕らにとってさらに根源的な問い、僕らの生の肯定的な意味をどこに求めれば良いのか、という課題に直面 したときに自ずとあらわれてくるものであったのである。

僕にとって、ひとが本来まず最重要課題として取り組まねばならないことは自らの生の意味である、ということは明らかなものだった。これは宗教教育のアドバンテージである。宗教教育は価値の相対化という、日本ではなかなか身に付けられない発想を子供たちに訓練するからだ。一度それを憶えてしまえば、その後、ある思想や価値観や世界観の実現や維持のための洗練された技術に心から感心することはあっても、それを意味そのものと取り違えてアイデンティティの危機に陥るというようなことは避けることができる。もちろん、宗教自体が抱えている問題というのはある。宗教は個人の生を肯定すると同時に、しばしばその宗教の組織基盤である集団を無条件に肯定しようとする。何かを選択的に肯定することは、それ以外のものを否定することに他ならない。その根拠が日常生活的な論理から遠いものであればあるほど、つまり「絶対」に近いものであるほど、その肯定と否定は議論の余地のないものとなり、理不尽な悲劇を産む。これは体系化/組織化された宗教が必ず持っている忌まわしい面 である。

少なくとも現在の地球上で、何らかの形で民族主義的なものに結び付いていない大きな宗教というものはない。これはおそらく、信仰が「宗教」というカテゴリーに入ったときにすでに内在していたものである。信仰は、個人の生に対する態度という、もっと素朴な形で伝えられるべきなのかもしれない。部落の長老が子供たちに、人間らしく生きるには、という「こころ」を語って聞かせるように。あるいは、仕留めた獲物の前で涙を流しながら、悲しい謝罪のうたを歌う父親に狩猟技術を習うように。

僕は時々、旧約聖書の中で、「そこで四千人のペリシテ人を殺した」ような記述の後、「その後イスラエルは死んだペリシテ人達のために声を上げて泣き、祈りを捧げた」くらいのフレーズがあればもっとやさしく愛読できるのになあ、と思うことがある。これはまあもちろん、あまっちょろい日本人の見方かも知れないけどね。当事者にしか絶対にわからない厳しさというものはあるからね。郊外で経済力のバリアを張って「平穏な生活」を楽しんでいる人びとに、ストリートで育った子供達に意見する資格があるだろうか、というのと同じような論理ですね。これだって、日本に居るだけじゃ感覚としてわかんないんだよね。話が随分外れたけどまあいいか。

まあそんなわけで、いろいろと問題の多い宗教ではあるのですが、「日本社会の一般 常識」的な教育だけを受けるということも充分ありうることだった、という点では僕はラッキーだった、というようなことです。

その点ではいまだに僕は幸運だったと思っている。 でもその当時、つまり大学に入りたての頃、僕のその思いは尋常でなかった。僕も自分の生を肯定することにかけては僕なりに真剣だった。だって、自分が生きている意味や根拠というものがなくて、どうしてこの腐った世界で死なずに息を続けることができよう?

中溝は僕の知っていた他の友人達とは全然違っていた。僕が他の友人達と話していて感じる、結局おまえらが関心を持つのはそこまでなんだろう、俺はもっと遠いところに射程距離があるのさ、というような態度を許さないようなところがあった。僕が自分の世界観、世界の中での自分の位 置というものに非常に関心があったのに比べると、彼の場合は目前に広がっている世界そのものの在り方にほうに興味があるみたいだった。世界の不愉快さを憎悪しているようにも見えた。


もうひとり、「他の友人達とは全然違っていた」やつがいたが、それは言うまでもなく今井でした。彼のアプローチの仕方というのも僕に随分刺激を与えてくれたのだ。SFのファンでもどうしようもない連中だっていっぱいいるけど、ある種のSFが伝えようとしていたことをきちんとうけとった読者は、いままでの文学ではなかなか到達できなかった視点に一気にとんで行ってしまうことができたのではないだろうか。生物種としての人類という捉え方や、宇宙の変化の一部としての生命の歴史や、物理的な法則の普遍性や、あるいはそんな法則の無意味さまで、彼はちゃんとわきまえているように見えた。この透明で洗練された世界観の形成と、彼が余計な伝統や歴史のない新しい都市、札幌で生まれ育ったということは決して無関係ではない、とおもう。

革命はすべて辺境から起きるのであり、新しいパラダイムは植民地からはじまるのだ。宗教革命がそうだったし、植民地アメリカがイギリス本土の重苦しい伝統から解き放されて20世紀を築いたのだし、明治維新は九州から火を吹いた。 俺は世界に対する自分の役割はなにかということに気がついているのだ、おまえだって少なくともある程度見えているなら、無関係じゃ居られないんだぞ、というのが関わり方だったのだ。


本来なら、宗教とは何かという問いは信仰を持つものから発せられるはずがない、という議論もある。でも僕らは人間でありながら人間について考えようとし、生きていながら生について考えようとする。だから、僕に対して、「宗教について」という議論ができる限り、おまえは信仰者であるはずがない、と言ういいかたは、「人間について語るおまえが人間であるはずがない」という風に響く。

僕は様々な矛盾にも気がついていたし、人間の組織である教会の限界も感じていた。でも、そんなものは問題ではなかったのだ。結局、僕が必要としていたのは僕が生きてゆくために対決しなくてはいけないいろいろな問題をひとまとめに解決できる超・モノサシのようなものだったのである。

自分自身に対して誠実であるということ。

動機を記述するのは難しい。ただ、先に書いたような基本姿勢で僕らは世界観の組み立てを始めていたのだ。そんなわけで、当然ながら彼の世界観の中での「宗教」の位 置と、僕の世界観の中での「宗教を弾劾する者」の位置という衝突が起きたのだ。ただ、傾向として、僕が他人の世界観に無関心であったのに対して、彼はそうでなかった。僕が無関心であったということは、心境の変化の経緯としてなら説明することはできる。僕にとって、自分が得たと思い込んでいた価値観が危機に曝されるなどということはあり得ないことだったのだ。だから友人と日常レベルで 楽しくつき合うことと、自分の世界観の構築と補強とは全く別のものだったのだ。悪くいうと、そんな友人が大学で現れるわけがないとたかを括っていたのだ。僕の精神の成長は価値の拡大だった。自分の存在がどういう価値/意味によって解消することができるか、という。だから当時の彼にとって最初の頃の僕の態度は不愉快きわまりないものであったろう。

彼は僕を「宗教者」というカテゴリーに整理し、僕は彼を「よく考えてるけど所詮宗教者でない」に分類した。そんな風にして、特に僕が他人の世界観に冷淡であったということから、主に彼が僕の世界観を引き出して分析しようと攻撃するという形で接触がはじまった。

よく憶えているやりとり。(ついでながら、僕はその場を冷静に眺めているから細かいことを憶えているのでは決してない。自分に切実な問題であるほどよく憶えている)

中溝「(僕が宗教者である、と聞いて)そうか、君に向かって宗教論をぶたなくてよかったな。」(下手にひとを傷つけなくてよかった、という意味のように聞こえるが、ほんとうにそう思っているならそんなこと相手に向かって口に出すべきではない。すでに言ったも同然じゃないか。中溝らしいよまったく)

中溝「どんな宗教だって俺は論破できる自信があるね」
石川「どんなに宗教を論破できると思ってるやつだって論破できる自信があるよ」
中溝「ほんと?(間)まあゆっくり話してみないとわからないなそれは」

石川「(仲間外れにされていた友人を指して)なんで急に彼だけアウトサイダーになっちゃんたんだ?」
中溝「あとで真のアウトサイダーの定義を教えてやるよ」

僕は自分が倒れるとき、寮の後輩の何人かを道連れにした。今となっては、とても済まないことをしたと思う。信仰とはそんな風に取り上げられるべきではないのだし、自分が傷ついてもひとを傷つけていいという理由はどこにもないのだ。

夏の夜、寮の食堂には僕と小西さんという外語大に通っている三十くらいの人と、二人きりだった。僕は独立学園の教育が卒業生にどのような効果 があったか、とか、キリスト教の理念と無教会派のスノビズム、というような話をしていた。そのころの僕は精神的にかなり参っていて、寮の誰かを捕まえては愚痴のようにそんな話ばかりしていたのだ。最大の問題は、こうあるべきだという自分と現実の自分の埋め難いギャップや、もしここで自分の世界観の破棄を余儀なくされるとしたらこれまで僕なりに一生懸命築いてきたものはなんだったんだろう、という無意味への恐怖だった。

先輩が何か言った。たいしたことではなかったのだが、「意味意味、って言う言い方がキリスト教らしい」とかいうようなことだった。

何かが僕の胃をねじりあげた。ぼくはまるで大事なものを忘れたことを思い出しかかっているときのような、言葉にできない焦燥感のようなもので一杯になって、頭を抱えて出口を探そうとした。そのとき、突然僕は自分が自由であることを感じた。僕の中で奇跡のように何かが倒れ、何かがはばたいたのだ。こんなことはそれまであったことはなかったし、おそらく今後も一生を通 してないだろう。この瞬間は僕の人生最大の出来事になった。章が変わったのだ。

大学3年の夏以来、僕を脅かすものは消えてしまった。そして、僕はもっとずっと日常生活レベルの子細な問題や、他愛ない休暇の楽しみや、女の子との恋愛や、そういったものに堂々と一喜一憂することになる。

いうまでもなく、僕は自分で爆弾を抱えていて、それに気がつかない振りをしていたに過ぎない。僕が構築しつつあった世界観が完全なものとなるためにはそれを無視するよりほかなかったのである。この点にたいして彼は非常に厳格だったのだ。矛盾を抱えつつ、それを自分自身に隠そうとしている人を見抜くのは、ある程度思考の訓練を積んだ者にとってはたやすい。そして彼はそれが許せなかったのだ。

この態度は今も存続しているし、何よりも彼が彼自身にたいしてとり続けている姿勢でもある。


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