衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

石川君の「手記のようなもの」を読んで

石川君の驚くべき過去の記憶には脱帽せざるをえぬが、今はそれよりむしろ私と石川君が共有したかつての大学生活に関する子細なる記憶の欠如について想い巡らすばかりである。結論からいうと、いやありていにいうと、私は私で自分の形而上の諸問題に対する一種病的な集中のためかえって社会的な責任、もっと易しくいえば、対人的思いやりに圧倒的に欠いていた、に違いないのである。つまり問題の中心に到達しようと努める余りに、実は最終的目標である個々人の幸せというものに対して何の注意も払わなかったのであろう。私自身が自分の幸福について、もっと近道で考察することができたなら。まして他人の幸せに関しては、なにをか言わんやである。或いはこの問題に満ちた世界で自分を始めとする個人が幸せになってよいなどとすら思っていなかったのである。

まず何よりも今でも完全に思い出せるのは、自分の置かれている大学生活に対し、特に一年の最初の頃だが、全く満足していなかったという事実だ。その不満足を説明するのには時間がかかるので、以後に機会をゆずるが、何にしろ不満な学生が満足した「信仰者」に対し、黙っていられようはずがなかった。しかもその「信仰者」が気質的にか趣味の上でか似通 っていたならなおさらのことである。

実際問題、自分の歩んでいる道がかろうじてでも肯定的に感じられたことは高校の三年間から大学を出て就職し、それを辞めようと決意するまで一度たりとも訪れたことはなかった。勿論、現在の私が自分に満足しているとも言い難いが、あの八年間にちかい時期というのはまるで迷路の様だった...

(と、いうところで前の文章は未完のまま、昨年の10月頃からかれこれ9ヶ月ほど中断されていた。何はともあれ、こんなに長い中絶期間の後、なぜ突然に再開したのかというところから、説明する必要があるであろう。)

私は自分の過去を説明する際、ことに、高校卒業後以降のことだが、石川初君の言葉を、というよりは、彼の記憶を借りずしてはそれをなし得ない、という決定的な「条件」に対峙しなければならない。私は過去の世界に浸り込んで、その記憶の中だけで遊べるという質では少なくともない。もちろん、石川君がそういう人だと言おうとしているのでもない。しかし、過去の自分を思い出そうとしなければならない時に、決定的な記憶の欠如に面 と向かわねばならなくなるのだ。そこに来て、石川初君は、私にわれわれの共通 の過去の記憶を隅から隅まで教えてくれることの出来る貴重で珍しい存在である。石川君が私のことについての思い出すことの出来ることとは勿論、本人の石川君が私と経験を共有している部分についてのみである(当り前だが)。しかし、大学の4年間で、部活以外の部分で思い出す価値があるのは、それまた、石川君とのやり取りであったとさえ言えるのだ。

そうなってくると、その大事な石川君との間で生じた経験で思い出す価値のあることは数え切れぬ ほどあるにも関わらす、それを思い出すには石川君本人の助けが必要であるという、これまた何ともたよりない他人依存型の自己認識を迫られるのである。

彼はあの頃のことをよく覚えているのは、「その場を冷静に見つめているからではなく、自分に切実な問題であるほどよく覚えている」からだと書いている。私はこれといって断定できるほどの材料も理由もないが、それを彼自身のたぐい希ない、「象のような容量 をもつ、何でも覚えておいていつでも必要とあらば引出しからとり出すことの出来る記憶装置」のせいだと最近は思い始めてている。なぜかならば、私が、今井君に「タバコと酒が本当に同じなのか」という、今考えてみても、到底「切実」と思えない設問を投げかけた時の細かなやり取りを事細かに覚えている、というのはどう説明したらいいのか。私にも記憶装置はあるようだが、「何でも覚えておいていつでも必要とあらば引出しからとり出すことの出来るような記憶装置」の類ではないようだ。

私の石川君がらみの思い出で現在自ら思い出すことの出来るものはほとんどすべて、彼の「昔の話」によって、二重になぞられた部分のみである。まったく自慢にもならない話だが。彼にとって重要だったことで、彼が私に話すことの出来る部分については、おそらくほとんど彼が話をしただろうから(これもまったくの嘘であるかも)、私はそれを「今知っている」ということができるわけだが、彼が二度と話も思い出したくもないことについては、二度と思い出として私の中に蘇る可能性もないだろうと、推察されるのである。まったく自慢にもならない話だし、石川君に対してちょっと失礼かもしれない。

さて、われわれの間で一種の申し合せになっている、「どちらかが先に死んだら、生き残った方が、相手の、そして二人の半生を文章にする」という私と彼の間での約束は、そんなわけで私にとってはかなりの負担になるであろう。

ひとつ言えることは、これは昔の記憶に関連せずに言えば、私がその関係の常から、石川君の様々なことにいつも文句を付け、喰らいついたにも関わらず、実際にそのために彼が動く、などと言うことはかつてほとんどなかったように思う。また彼の自我というか、その根本の堅固さというのは、ちょっと特殊なほどだと言ってよかった。例えば、私が薦める本を彼が読むとか、私が薦めた音楽を彼が聞くというような生活一般 について私が何か影響を与えるというようなことは、ほとんどなかったであろう。その逆が起こりがちであったとしてもである。

つまり、彼が「手記」で書いているように、私は喰らいつくことによって、彼の内面 にある種のインパクトを与えるようなことが仮にあったとしても、専ら影響を受け、生活そのものに相手からのアイデアを取り入れたりしていたのは私の方だったのだ。これについてはおそらく、彼からの反論があるだろう。例えば、目で見えるような表面 的な変化というようなものが本当の影響を意味しない、などというような反論である。しかし、私に言わせれば、いくらこちらから喋ったり働きかけてもどんどん吸い込まれるブラック・ホールの様なもので、私としては、彼にとり一体何が有効で何が無効であったのかまったく知るすべがなかった。

そう。飽くまで表面的なことではあるが、私の方から見た場合、彼からのリアクションの欠如のため、彼が何を考えているのかよく判らなかった、というのが正直なところなのである。

さて、私は大学に於て2年生の秋頃から、クラブ活動であるオーケストラが非常に忙しくなったので、真面 目に専門学科の方に力を入れていた(であろう)石川君とは、それから1年以上疎遠になった。学科の方のグループ分けが学籍番号順であったことも災いして、彼との時間的共有は非常に限られたものになった。そうなのだ。二人の間で、最もドラマチックな展開があったのは、もっぱら1年生のときであったのだ。

3年生になってからは私のクラブを中心とした生活に拍車がかかり、また、私にとって大事件であった、〈ガール・フレンドの出現ッ!〉という時期とも重なり、私自身は公私ともに忙しくなっていた。そんな訳で3年生の秋の収穫祭まで、これと言う共有事件もなかった(ように思う)。しかしその年、収穫祭で文化学術展のためのジオラマ製作を共同作業でしたというのは、彼にとってはともかく、私にとってはひとつの重大な体験であった。

いやはや私も一緒にいれば、何かしたと言うことにはなったのかも知れないが、彼の優れた絵かきの才能の前では、足を引っ張ったくらいのものだったかも知れない。いや、でもなにしろ、彼は確か〈引き受けた関係上、とにかく「文展」を終らせなければならなかった〉訳で、猫の手も借りたいほどの忙しさだったのだ。だからまあいいか。時に彼がそれを引き受けたというのも、とにかく彼は絵を描くのがすきだった、ということの現れであったのだろう。私は彼がどうしてそこまで、その作業にこだわったのか、という理由をようやく今にして、理解することが出来る様な気がする。

私はむしろ今はその文展の作業で何をしたか、と言うよりは、その作業中に私に衝撃を与えたのは、石川君からの話の方だった。我々は公私にわたる忙しさのために1年近く、互いに御無沙汰していたのであった。私も3年生になって、クラブの役員生活もだいぶん波にのり、後輩のいろいろな問題や相談ごとに心を砕いたり、自ら問題を作り出したりしており、とにかく人生について考える材料があまりに山積していたのだ。それは彼にしても同じことであったのではないかと思う。

というところで今回はちょっと君に送ることにする。思い出すためには君による記憶の修正の必要を強く感じるのだ。君のフィードバックを期待する。

私がものを覚えていないのは、実は『幸せ』であったからではないのか。


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