衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

音楽は「外」から捉えうるか

かつて私は、「学問を識る」という時、それを内部から攻めても本質に達し得ない、というようなことをよく口にした(日本の大学にいた頃)。例えば、「宗教を識る」などの時、宗教学的アプローチをしてもその宗教の実態を掴むことは出来ない、という事を考えていた。つまり私は宗教を識るのに神学校や宗教学科などに行くのは、愚の骨頂だと思えたのだ。宗教学を学ぶことは、ひょっとするとある特定の宗教の各論的知識を蓄えたり、学んだりすることは可能かもしれないが、それでは「宗教が解った」ことにはならないと考えたのだった。信仰などを抱いたら最後、宗教を客観的に把握する機会から永久に閉ざされてしまう訳で、「宗教に学ぶ」事はともかくとして、それを「識る」という状態からは程遠いところにいる事になってしまうと思ったのだった。つまりある何かを客観的に捉えることこそ、「識る」というのに相応しく、それに巻き込まれ、主観的・盲目的にしか捉えられない状況を私は愚かだと信じたのだ。

さて、わたしが以前考えていたことをまとめると次のような事になるだろうか。

「宗教を識る」と言う時、私は宗教以外の総てでもってそれを語ることは出来るが、宗教の言語によって宗教がどういうものであるかを説明することは出来ない。世界に於て、宗教がどういうものであって、世界のどこを占め、どのような役割を担っているのか、と言うのは宗教以外の言葉でもってしか、語り尽くすことは出来ない。「目が目自身を見ることができない」ように、ある学問分野がその学問自体を語ることは出来ない。従って、ある学問の概論とはその学問の存在意義を自己正当化する試みに他ならず、学問が真の意味で、存在意義を否定するような自己反省をすることは有り得ない。

また、

「何かに用いられるべきツールとして経済を割り切って学ぼう」というように心の準備が出来ている者が、敢えてそれを選ぶ事にはそれなりの意味があるが、「経済学」に興味があったり、「経済とはなんだろう」と考えている者が、経済学部などに行ってしまえば、却ってそれが「何であるか」を識る事からは遠ざかってしまうことになる。

「共産主義は我々の理想です。マルクス経済学を知るために私たちと一緒に勉強しませんか? 毎週私たちは勉強会を開いています」などと、M同盟は大学に入学したばかりの未熟な学生を勧誘している(その勧誘の言葉こそ彼らの陥っている矛盾である)が、共産党の影響の元で学ぶ、「社会主義の経済学」なるものが、どういったモノなのかは想像に難くないではないか。そんな勉強会で洗脳された日には、それを「識る」ことなんぞ一生できやしない。

「それが何であるか」と言うのは、その周辺の語るところを総合して判断するよりほかない。

こうしたものがこれまでの私の考えで、基本的に私は間違っていなかったと思う。思うのだが、さて、私は音楽というものを外から眺めている人達の語るのを聞いて大きな失望を、同情の念を抱いているのである。音楽に近い人々の中には音楽を客観的に捉えるべき、「学問的批判の対象」のように考えて接している者がいる。確かに音楽が学問のひとつの分野と型造っている以上、それは「可能」なことであるが、私にとって音楽が持っているべき本質の大きな違いは、「音楽が何かのツールとしてある」のではなく、それ自身が完結した目的であり、あるいはそうした面 は忘れているか、はたまた最初から知られていないのだ。音楽は行為そのものであり、生活そのもであるという側面 が私にとって最重要事なのであった。

すなわち私の今回の結論のひとつとして、「音楽は学問ではない」という事があるのだ。

音楽が「何かのため」であるという事は無論有り得る。そのためには批判行為も必要かつ有効である。「バレエや映画のための音楽」のようにそれ自体で完結していないものは、当然批判の対象になり得る。こうした「相対音楽」は、例えばどのような音楽表現がどういう場面 に相応しいか、など大いに検討し得るからである。しかし、わたしの語っている音楽は信仰家にとっての宗教と同じで、生活そのものであり、決して何かのためのツールというレベルには降りてこない。それ自体が常に絶対的至上のものとして(あるいは基礎としてすべてのものの下に)存在し続けている。

私の音楽に対峙する仕方とは、そういうものであり、客観的に「識ろう」と思う対象であったことは、実は一度もなかったのだ。音大にまで籍を置き、学問的にそれにアプローチさえしたことさえあったが、音楽をするためのツールを身に着けたり、(どう聴くべきか、再検討したり)することはあっても、音楽自体に対する私の基本的態度は結局変わりようがなかったのだ。

日本にいる音楽愛好家や評論家たちは、音楽を実によく「識って」おり、詳しい。だが本質的にまったくそれを楽しんでいるようには思えない。つまり「音楽を外部から把握して面 白がっている」風にも思える人が多くいるが、事実それを楽しんでいない。楽しんでいるフリをしているだけなのだ。音楽は外側からはまったく分からないものである。

私がそれを楽しんでいる、という時、私は音楽の外にはいない。私は(スピーカーや演奏者の前にいるようで)実はそれに参加してしまっているのだ。私はそこにはいない。私は音楽の内にいるのだ。

演奏しているときは言うまでもないが、音楽の形を整えることに気を回していないときは、尚のこと、私は完全に音楽の内部に取り込まれており、何が起こっているかさえも分かってはいないのだ。それこそが私にとっての音楽で、ひょっとするとそれは宗教が信仰者に与えることができたもの、と同じなのかもしれない。

音楽に関しては、告白するが、私は完全にインサイダーなのであった。私は音楽を聴くとき、それを「本当に聴いている」と私が感じるときは、実はそれを演奏しているのだ。そして参加しているとき以外は、音楽は環境音、あるいは時として騒音以外の何でもない。

アマチュアでも「演奏家」であるというだけで、私はそのひとを創作家であると断定し、信頼することができる。あるいはアマであるからこそ、そうだとさえ言いうるのだ。私は「音楽を学ぶこと」に失敗した。それは無論「音楽に学ぶこと」に成功した事に他ならず、実は私は「音楽を学」び始める前からそうであり、今も依然としてそうなのだ。

私は未だ「音楽に学」び続けている。 信仰者は宗教を学ばず、宗教の語るところに学ぶ。あるいは学び続けようとする者のことである。私は「一連の体験」の後、宗教の語る言葉さえ、解るように思った。少なくともかつては私は宗教を学ぼうとし、あるいは識ろうとした。そして識ろうと思っていた程に、自分を「行為」に追い込まなかったことも事実だが、やはり外部からそれに近付くことが現実的であると信じていたのは事実である。いやそれは私の傲慢の現れであったのだ。そう。宗教に関しても私はそれを解った、と悟ったとき、この私でさえも宗教の内部にいたのだ。それでいて、私はその内部に留まることを自分に強い続けることが出来なかった。この点で、信仰者にはなり得なかった。

職業音楽家であるか否かと全く関わりなく、音楽の内部に留まり続けることで、私は「音楽者」たり続けるであろう。私はそれをモットーにし(いや、それは私にとってモットーですらないが)、その態度を変わることないよう肝に銘じ、「創作する側」に身を置き、音楽を「内」から捉え続けたいと願い続けるのみだ。


© February 1994 Archivelago