衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

国家と目的意識

目的意識?国家に?

そんなものがあるわけがない。目的などというものは、外から与えられるものであって、自然発生する類のものではない。しばしばそれは「伝統」や「信仰」といった合理性からは程遠いものから引き出されてくることはあるにはある。無論、伝統や信仰にはかつて確固たる目的性(ねらい)があったが、それは失われ、習慣と化した。習慣化された信仰、伝統が、目的意識など元より存在しない国家や集団に目的を与えるのだ。(ちなみに目的の伝達が不完全な場合、そうした文化・習慣・伝統・信仰と言ったものは容易に拡大解釈され、理念は曲げられ、集団を都合の良い方向へと駆り立て得る。)生まれながらに人生や国家の目的を知っている者などはいない。それは全て「教育」によって与えられるのだ。教育は信じられる対象をつくり、信じるものが出来れば目的を設定できる。反対に、外部から教えられなければ、目的意識は醸成できない。

日本は国際的貢献や目的意識をもっていないとされ、しばしばそれは日本国内において問題視される。だれも、日本に対して「おまえたちにはこういう存続の目的がある」とは教えてくれないからだ。つまり、自己の存続に目的を与えようとするのは自己自身だ。そんなわけで、与えられたことがない以上、日本に国家級の目的意識がないとしても、それはむしろきわめて自然と言うべきである。突然「持て」と言われても、それはどだい無理なことなのだ。目的というものは完結的存在(自己)には内包されていない。目的とは常に外との関わりにおいて規定されるのだ。目的は相対的関係において生じる。

例えば、アメリカという国家の目的は、と言われれば、国民の一人一人は知らないとしても、ヨーロッパ社会の安定と平和という絶対的な目的が外に存在している。それは、旧約聖書の中で説明されているヤコブの12人の息子たちの中の「ヨゼフ」の役どころだ。ヨゼフは売られた新天地で生き延びて来るべきイスラエル(ヤコブ)の国の飢饉から親兄弟を救わなければならないのだ。ヨーロッパの安定がアメリカの正義である。これは外部に存在するアメリカの「目的」である。

それでは、ヨーロッパの国々には存在理由(目的)があるか、と言えば、そのようなものはない。ヨーロッパはそれ自体で完結した目的そのものなのだ。何かのための存在では断じてない。ヨーロッパはヨーロッパとして存在することで、世界に目的を与え続けられるのだ。

日本には、繰り返すが、これといった目的意識がある必要はない。なくとも、世界を潤わせ、温めたり光としての機能は十分に果 たし続けられるからだ。「ツールとしての日本」が機能的に洗練されるなど、当面 のゴールを目指すことは出来ても、それ自体が国際社会におけるどういう意味を持っているのかは、いまだ知らされていない。むしろ、それを知っているのはヨーロッパであり、アメリカだ。しかし、日本が「自意識を発展させない」ことが光として最高の機能を発揮するのであって、その意味でこの国家自身にその意味を教えないことでこの「暖」「光」としての成功がある。

そんなわけで「本当の存在目的」を打ち出すヴィジョンをこの国民が持っていないとしても、なんの不思議もないのだ。「最終目的」を知らないからこそ、内燃機関として世界のために走り続けられる、という事もあるのだ。意味を問わず走り続けるからこそ、実は国際社会への貢献を果 たせるわけだが、その国民自体がそれを知らないことも、それはまた皮肉なものと言えよう。


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