衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

醤油とご飯の間には

醤油とご飯の間には、理論的に説明できない関係が存在する。それは要約するとこうだ。

白いご飯に醤油を直接かけるべからず。
(白いご飯が何らかの加工が施されている場合は、その限りに非ず。)

日本人は、おかずの味付けに何かと醤油を使うわけで、大豆オリエンテッドな食生活をしている日本人の家庭の食卓が醤油、もしくは「味噌臭かった」としても、それは無理からぬ ことである。ただ、ここでその醤油の使い方に関してストリクトなルールが存在しているのを忘れては生けない。醤油を、やっこや茹でたホウレンソウにかけて、それをおかずに白いご飯と一緒に食べるのは良いが、ご飯に直接醤油をかけてはいけないのだ。ご飯と醤油の間に、たとえば鰹節などの挟雑物が介在していれば、問題はない。また醤油に酒やミリンなどのセカンダリー・イングリーディエントが入っているときもその限りにない。従って、鰻のかば焼丼に甘辛いテリヤキソースがかかっており、それが丼の底にたまるほどの量 であっても一向良いが、醤油をご飯にかけるのはいただけないのである。醤油の使用絶対量 が同じなら、直接かけようが、何かを間に挟もうが健康上は同じことではないか、と言われそうだがそういうものではない。

安易にそうしたくもないのだが、それは「美学的な問題」に置き換えられそうだ(いや、断じて置き換えなければならない)。

白いご飯に直接醤油をかけてはいけない?「どうせ醤油を使っているんだから、おかずが充実していないときは、直接ご飯に醤油をかけても良いではないか」と指摘されそうだ。事実、日本の食生活を幼少のころから経験していない西洋人は、容易にこの「醤油トラップ」に引っかかる。その結果 、「塩分摂取過多」の泥沼にはまり込むのだ。白いご飯に直接醤油をかけてはいけない、というルールはどうしてそれがいけないのかという理由さえ知らない母親から自然と子供に受け継がれる。客観的考察や検討のメスが入らないのだから、これはほとんど宗教的ドグマにも似ていなくもない。いずれにしても「白いご飯に直接醤油をかけてはならない」という「説明なき習慣」は少なくとも日本人の健康管理に多大に資するものであったことに疑いはない。

特に、寿司を通じて「日本の白い米」と「醤油」の文化に触れた「外国人」は、簡単にこの「醤油トラップ」に引っかかる。「寿司は旨い。醤油のせいだ」と短絡してしまうのも無理はない。醤油はそれほどに旨く、やめられない要素があるのも確かなようだ。どうもそのアディクティブ(中毒的)な原因には、醤油に含まれる「グルタミン酸ナトリウム」の存在があるという話を聞いたことがある。海外のレストランがいったん醤油を注文すると、そこから注文が途絶えることはない、とか。だが、醤油の中毒性や日本の大豆加工業の陰謀の話まで発展させるきはない。

私は大体、塩辛いものや辛いものに目がないので、塩分取りすぎになりがちであるが、それでも寿司を食べるときは受け皿に注ぐ醤油の量 に注意を払っているつもりだ。これは親や他の人が受け皿にどのぐらい醤油を注ぐのか、寿司にどのくらいの醤油を浸すのか、というのを幼少より観察していたことの結果 である。湖のように注いだ醤油皿に寿司を浸すのは健康に悪いばかりでなく、見た目にも格好が悪い、という言わば「文化的抑制」がかかる。大人はこうするもの、という暗黙の社会的規範のようなものが存在しているのだ。(そう、大人として振舞うためにはそうしたルールを学んでいく必要があるのだ。)それが出来ないものは、「アマチュア」と言う風に思われる。日本人は(特に東京人は)自分が社会的にスキルフルでないということに我慢できない。(これについては石川初氏の興味深いエッセイがあるのでそれを参照。)

話がだいぶん反れたが、つまり、寿司を食べるに際しても東京人には格好のよい作法と言うものが存在している。中学生のときだったと思うが、国語の教科書か参考書に載っていたエッセイのなかに、どうやって寿司を「粋に」食するか、というものがあった。エッセイに出てくる寿司を食べる達人は、寿司を手で食べるのは言うまでもなく、いかにそれを醤油に浸すか、という事まで弟子(筆者)に伝授する。寿司メシが醤油の湖に残っている状態を「シラミの卵が浮かんでいる」ようで「いかにも粋じゃない」と非難し、どうやってそのようなことを避けられるかを延々説明するのだ。例によって細かな描写 は忘れたが、「達人」は「筆者氏」に向かって、寿司を90度倒して醤油に浸すとそのような「格好の悪い」状態から回避できるし、メシにではなく寿司ネタに醤油を付けることができる、などの口上をしたり顔で垂れていたのを思い出す。

どんな領域に対しても『プロ』であることが江戸っ子(東京人)にとっては誇りなのだ。しかし、そう言った熟練に対するこだわりが、我々東京人からも薄れつつある、というようなことをその達人が嘆いているのが、エッセイの結びの部分であったように思う(私の記憶は全く当てにならないが)。

脱線ついでに言及すると、「東京は、世界を代表する近代都市でありながら、いかにも不便に出来ており、熟練しなければ使いこなすことができない。街自体が〈人間は熟練して当然〉という前提の上になりたっている。そしてむしろ、そういった各個人への基本的な期待のために、日本の都市計画は発展しない」というところまで石川氏の主張は含んでいる。まさに寿司の食べ方や、箸の使い方を始めとして、人があらゆる面 で熟達するのが当然で、そうなることこそ「大人であるに相応しい」と言う日本人の心の深層に存在している基本的な理念なのだ。

かくて話は彼方へ逸れて行ったが、さて、問題はどうやって日本人の「白いご飯に醤油をかけてはいけない」という美学を異文化人に教えたら良いのか、ということである。 私はかつて、高校生のとき、親友に「枢軸国側がもし第二次大戦で勝っていたなら、世界はどうなっていただろう。ヒットラーや東条秀樹は英雄になっていだだろうか」と云った類のことで、話題の水を向けてみたことがある。しかし、彼はただ一言、「敗軍の将、兵を語らず」と言って取り合わなかった。

これは恐らく、『兵法』を説いた孫子か誰かの言なのだろうが、「何となく意味深いこと」を言われて、それ以上何も受け答えができなかった(「『敗軍の将、兵を語らず』? だからどうだって言うんだよ。それで何か説明したつもりかよ」と反撃もできなかったのだ。今の私ならそうするのに)。 「ぶんか」のルールに限らず、人になにかを納得させるには、こうした理由・説明なき「言い切り」の「金言」「格言」のたぐいこそが最も効果 的なのだ。うまい言い切りは、それ以上の理論的考察を拒否する、という機能がある。

お正月の「書き初め」の題材になるような、あるいは「今年の抱負」などと言うものにそういったものが多い。そういった格言には、われわれ「客観の梯子」を登り詰めようとしている者にとっては、要注意であるが、一方、他人を騙し納得させるのには最も効果 がある。そこで醤油と白いご飯に関する生活の知恵の格言の幾つかを提案しようではないか。

西洋人に何か言われたら、しかつめらしい顔をしておもむろに次のように言えば良いのだ。もちろん最初に日本語でこれを吟じた後で、「そうだな、英語で言うとこんな意味かな」とかなんとか言いながら、説明してあげればもっと理想的だが。

「白めし醤油で卒中行き」
「おかずがなけりゃしょうゆ使うな」
「馬鹿と醤油は使いよう」
「お酢とみりんは醤油の仲人(なこうど)」

お粗末でした。


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