衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

ひとつの季節が終わるのは

またひとつの季節が終わろうとしている。本当に寒い時期は、こちらがそれに慣れて、いよいよそれをたっぷり味わって楽しんでやろうと考え始めた頃に、向こうから猛威の手を引っ込め始めてしまうのだ。そういう訳で、いつも「本当に寒い冬」を楽しみ損ねてしまうのだ。

因みにこれを書き始めたのは、1月24日だが、いったん緩み始めた冬の厳しさが、またちょっと戻り始めたかな、という感覚があったので、筆を進められなくなっていたのだ。事実今日はすでに2月1日で、ようやくの執筆再開なのだが、また外では雪がちらついている。「あ、まだ冬将軍は最後の力を振り絞って頑張ってるな」と感じることができるのだ。いずれにしても少しさびしいものだ。

寒さが緩み始め、暖房が利きすぎるな、と感じ始めたら、もうその季節は終わりである。もう春はすぐそこまで来てしまっている。そして、何ともやり切れぬ 気持ちが残る。中には、暖かい春を心待ちにしている人もあろうかと思うが、私のように完全に文明のインキュベーターの中に保護されてしまっている人にとっては、「本当に寒い冬」というものは、ある種興奮がともなうイベントのようなものなのだ。特に、今年のように寒さに気合が入っていると、もうそれを楽しまない手はない、とこちらの気合も入り、用もないのに、敢えて厳寒の外に出て行こうという気さえ起こしてしまうのである。天気予報で、「今週は週末にかけて一段と冷え込みが厳しくなり、雪も積もる」なんて(もちろん英語で)やっていると、もう、土曜、日曜と外に出掛ける予定を組みたくなってしまうのだ。もう病気だ。

というわけで、私はひとつの季節(きびしい季節)が終わるのがいつも実に残念だと感じてしまうのだ。冬が最も顕著だが、季節に関していえば、どの季節も去って行くということになると、私はそれを惜しむ気持ちで一杯になってしまうのだ。これは単に私が天の邪鬼であるということもあるのだろうが、いわゆる人と違うことを態(ワザ)と言ってやろう、やってやろう、という「天の邪鬼」ではないのだ(だから、真性天の邪鬼だという説もあるが)。本当にそう思うのだ。

例えば、子供の頃など、台風が東京地方を時たま襲ったりするときに、雨戸を完全に閉め切り、風で揺さぶられる家の中で、台風が通 過するのを待つのも、ある種のイベントのような面があった。心のどこかで楽しんでいるというところがあるのだった。2、3時間揺さぶられた後、台風が無事に通 過して行き、ニュースでも「関東地方を通過した」というような報道を流し始めるや、私は何か物悲しい気持ちに襲われたものだった。台風と命懸けで戦っている人や、家を建てたばかりの父親にしてみれば、私などはイイ気なもんだったんだろうが、これが正直な気持ちだからしょうがない。

さて、話しをもとに戻す。特に、ニューヨークに住んでからは、総てのアパートが冬の暖房に責任を持たなければならないこともあり、部屋の中で寒さに凍えるということが滅多にない。また、日本で着たことがないような、厚い皮のコートを着られるということも手伝って、特に外に出ることも苦痛ではない。毛糸の帽子を被り、マフラーで首をぐるぐる巻きにして完全に準備して、よし行くぞという感じで出掛けるので、それはひとつの楽しみになり得るのだ。

もっとも自分が帰れる場所としての、完全集中暖房のアパートがなければ、冬なんか早くどっか行っちゃえばいいのに、と心から願うことだろう。いや、私のようにスポイルされている文明の落とし子は、一番先に凍え死んでしまうに違いない。でもとにかく、本当に大抵、こうした寒い冬が去って行くとき、何となく残念な気持ちに浸ってしまうことは確かだ。


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