衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

シーシュポスの職人たち

建設業に携わるある友人(石川氏)から日本人の歴史認識の欠如についてのエッセイ(「昔話の歴史」)を受け取った。

彼の提示している内容は、確かに安直に批判することで終わってしまいがちな我々のアメリカの見方に、一つの新鮮な視点を与えることに成功している。普段私が見ていない仕方でアメリカを眺めているということもよく解る。

彼の書いた趣旨から、いくぶん外れるきらいはあるが、いずれにせよ私が彼のエッセイによって触発されたのは以下の様なことである。

日本で歴史認識をするのが困難なのは、単に人々がそれを大切にしていないからなのではなく、自分達のはっきりとしたルーツが分からないところにあるのではないか。そういう意味で、国の歴史が浅いということはある種のアドヴァンテージである。日本以外のどこの国民でも一人一人がどれだけの歴史的認識を持ち、これからの自分達のゆくべき歴史的方向性を責任もって決定付け、導こうとしているかには疑問の余地がある。アメリカの国民が文化や歴史を大切に出来るのだとすれば、それは自分達のルーツや国家の成り立ちを知っているから、と言えるかもしれないのだ。もし日本が、ついこの間建国された新興国家だったとしたら、50年毎の、また百年毎の国家的行事を執り行ったことであろう。そして国の経済的余裕に応じて記念的建造物の一つでも建てたに違いない。

確かに日本人の歴史に対する感覚が西洋の諸外国のそれに比べて、無頓着であるのは確かかもしれない。それは建設事業に携わるものにとっては致命的な問題だろう。しかし、彼が今回問題にしていることとは、「個人がどれだけ歴史という時間軸に親しみを持ち続けられるか」ということに違いない。

ときに、現在のアメリカ国民が、日本人に比べて文化を大切にしようという気持ちが強いのは彼の指摘にあるように確かだろう。しかしながら、その真価が問われるのは数百年後、もしくは千数百年後のアメリカ国民がどうしているか、あるいは今のこの国民がどれだけ現在の経済的豊かさ(それがどれだけの国家的赤字で成り立っているにせよ)を維持し続けられるか(それは他国からどれだけ収奪し続けられるか、ということと同義である)ということにかかっていると思う。国民の各家族当たりの借金が5万ドル以上ある(一夜にしてそうなったわけではない。それは歴史的に、アメリカという国がそうならざるを得ない習慣、文化、傾向を救いがたく持っていたということだ。)この状態で、なおかつワシントンの広大な空き地に、政府の貿易センターがその資金の調達もままならないまま建設を続けられている、そんな現実を見ると、ある種のアンバランスを感じずにはいられない。*

* ワシントン・モニュメントの上からも見ることの出来るその建設現場はいわゆるDCの政府関係省庁の建ち並ぶ街の中心、そして例のスミソニアン・インスティテュートのまん前にある。モニュメントの上からも一体何を建てるのか、と思わせるほどの広さの敷地が安全塀で囲まれ、赤土を晒しているのが見えた。ついこの間CNNでも取り上げられていたが、この「貿易センタ」ーの建設資金は年々大きく膨れあがっており、国民の生活を圧迫するほどの大きさになっているそうで、議員の中にもかなりの反対派が出てきはじめているのだ。

しかし、それを経済的観念からアンバランスであるとか何とか言うのはこの際、彼の文化論に対するレスポンスとしては不適当かも知れない。きっとこれはアメリカだけの問題ではなく、古代エジプトの時代(あるいはそれ以前)から連綿と続いている「国家という全体のためには国民は犠牲となって働かなくてはならない」、あるいは「国家という、威信ある全体なくしては生きてゆけないヒトの弱さの傾向」にほかならないのかも知れないのだから。

こうなってくると我々の生活基盤である文化的前提を是とするか非とするか(厳密には国家に属する誰一人として、それを〈非として〉生活をしている人はいない)、という問題に填り込んでしまうかもしれない。そして、決して私の小さな頭では結論付けられない問題領域に踏み込んでしまうのだ。

ここで私が思い出すのは、罰として巨大な石を山の上にころがしあげるという「意味のない仕事」を神から申し渡された男、シーシュポスの話である。シーシュポスは重い石を山の頂上まで押し上げるが、その直後にその石は麓まで転がり落ちてしまう。そして再び、いや、三度、四度と繰り返し膨大な労力の仕事を完遂してはそれが全くの徒労に終ってしまい、その無意味の繰り返しを強いられる。しかし、それは人類というものが地球という舞台の中で、無意味な歴史的反復をしているという単純な発想だけを単に示唆しているのではないことも事実だ。

何故シーシュポスがそのような罰を受けているのか、という理由が重要である。一説に、シーシュポスが神の怒りを買ったのは神々から《火》に関する秘密を盗み漏らしたからだ、というのがある。それはまるで《はじめの男女》が知識の実をもいでたべたので神が怒り、エデンの園から追放し男には労働を、女には生みの苦しみを与えたという話に似ていなくもない。ことの起こりは人類が「何か」を始めたために地上で無意味に見える仕事や不条理を負わされたという所にあるのだ。そしてその「何か」とは、意味を考え自分の行為を意識するという自我意識のことだ、というところまで到達しうる。

そうなると、人類の文明とはまさにシーシュポスが申しつけられた罰そのものと言える。(もしそうだとすると、何という無慈悲な事実!)そして、さらに富と権力の偏在、そして吸い上げた富の集積の結果 である、「石や建物に刻まれた記念物」もせいぜい数千年の歴史の流れの中で、「それがなんであったのか」さえ分からなくなってしまうほど無常のものである。そして同時に、エジプトやインダスなどの歴史的遺跡を見てしみじみ我々が感ずるその無常とは、まさに人類の歴史的努力とは何のためのものだったのかという問い、に出会うときに生ずるものなのかもしれない。


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