衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

解体という名のひとつの星

人類が数千年掛けて築き上げてきたあらゆる形式が崩壊する騒音の中で我々は生を受けた。解体はひとつの星。我々はその「解体」という名の黒い星が目前にまで近付きつつあるのを今世紀に至って発見した。その星はあらゆる創作家が落ちて行く引力の中心点である。

形式や形態は高いところでは、ふわふわと浮いているが、重力の中心点に近付くほど、その引き寄せようとする力はより大きいものになる。また落ちていくスピードも早くなる。

その星には叩き付けられたあらゆる価値の瓦礫とそれに身を任せた死者が累々と横たわっている。重力に逆らわず黒い中心に落ちていくのは簡単だが、空中に留まり続けるにはエネルギーがいる。引力に逆らうには膨大な抵抗が必要なのだ。しかしその抵抗こそが人間の営みであり、唯一「意味」のあるものである。

この星には、さまざまなレベルでの抵抗がある。しかし、いかなる留まり続ける努力も重力に反抗する試みに他ならない。

音楽の世界にも、重力の中心的存在があった。それを完全に定義しその中心で総てを誘う役割を果 たしたひとりが、例えばジョン・ケージである。彼は、主義や主張ではなく、世の終わりに必ず現れなければならなかった、現象のひとつであった。もちろんそれはジョン・ケージでなければならなかったわけではない。解体は約束されていたが、その中心的役割を担う運命がジョン・ケージに訪れたのだった。彼は、あるいは、自らのエネルギーを形式の構築に注ぐことをあきらめ、それを宣言した最初の人だった。

ジョン・ケージの成した発見は、重大である。しかしながらそれは人の「目指す道」ではない。それは、人が抵抗を諦めたとき、必然的に行き着く最終地点である。それは人の努力によって「勝ちとられるもの」ではなく、人の死によって最終的にもたらされるすべての「形而下の結果 」である。あるいはそれは「敗北」と言っても構わないかも知れなかった。

結果は見えている。遅かれ早かれ、人は死に絶え、あらゆる人為的な創造行為も総て地上において死滅する。文化や伝統、そしてかつて「芸術」と呼ばれたものたちの運命も然りである。

現在の我々のいる地点は限りなく、「地」に近い。それに叩き付けられるのは時間の問題である。しかしそれでもなお、落ちるのを防ぐ努力は各空間で行なわれ、「解体」への抵抗はますます熾烈を究めるのだった。

私は、解体の事実を認識し、解体の渦中にいることを認めつつ、自身は「解体主義者」でないことを断言する。あるいは、解体主義などという「主義」も存在しない、とさえ主張するであろう。「解体の引力に身を任せる者」は存在し、あるいは、積極的に「『重力の中心にいる者』を崇拝する者」が増え続け、確実に存在することは認めた上で、私はそれではない、と述べているのだ。解体の後には何も人に残されない。完全なる肉体の死こそが「人間の解体」にはふさわしい。敢えてそれに近付かずとも、それは遅かれ早かれ、確実に、容赦なくやってくる。問題は、いかにそれに抵抗し、あがき続け、悶え続けるか、ということなのだ。

創作はあらゆるレベル(高さ)に存在する。「創作」は、いかに生きるかと同義であるほどに、あらゆる方法と形態・形式がある。それは人間の在り方の数だけ存在するのだ。モーツァルトという方法や、バッハとよばれる方法もあった(ある)。あるいは、自作自演という方法も即興表現もある。それは各自がいかその時間と空間に留まり、満足し、その「場」を忘れることができるか、という事に掛かっている。

敢えて言うなら「芸術性は」ではなく、「人間性は」総て形式の中に宿っている。それがひとをしてアナライズを許すほどに同じ「場」に留まり続けているか、あるいは常に変化の中に軸足を置いているか、の違いで、そのひとに「形式」があるかどうかの判断が成される。 しかし、本当の創造行為には、そうした判断を許さないほどの「完結的」な形式が内包されている。

形式は学べる。現在の混沌における“秩序”たる「形式」を見いだすのには、それだけで、多大な努力が求められる。しかし、そうした運動は形式に反するものではなく、形式を産み出すための、それはまた「あまりに人間的な」行為なのである。

真の努力に相応しいものは、使い古された言い回しだが、学ばれた形式の反復ではなく、一からの創造である。それは、来るべき時代のために成されなければならない。その闘争の中で見いだされたものは、表面 的結果が同じでも真の創造に値する。「解体」の時代には、闘争の中で見いだされたものの中にだけ意味が生じる。それは客観的に存在するものではなく、飽くまでも個人的主観的なものであるが、また、それが故に意味があり成し遂げられなければならないのだ。

明らかだが、私の役割と言えば、解体の闇の中で、僅かであるが認めることのできる一瞬の光を放つ努力に身を捧げることだ。


© 1994 Archivelago