衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

あっちの水はあーまいぞ

われわれは「よそもの」の菓子の甘さに対しては寛大たれない。それは、勘繰りすぎとの批判を免れないかもしれないが、「よそもの」を簡単に認めたくない、というわれわれの普遍的傾向を如実に反映しているのである。にゃはは。

名前を思い出せないのは、実に私の不徳の致すところだが、大分前に、私はアメリカのあるジャーナリストが書いたエッセイを読んだ。私は、日本での生活が長いそのジャーナリストが日本のローカルサイドを旅行したときの、ある小さなエピソードを思い出した。彼が泊った民宿で、そこのおばあさんから「黒豆のスープ」を出されたが、飲めなかったという話だ。それは、つまり「おしるこ」のことなんだろうが、そのスープの甘さの描写 はたいへん興味深かった。「それはただ単に甘い、というだけのものではなく、忘れようとしても忘れることのできないそのしつこさと独特の舌触りのため、おばあさんには悪いと思ったが、2口以上食べ続けることができなかった」。時に、私はその独特の「しつこさ」とは、砂糖による甘さだけではなく、隠し味として足される「塩」のせいも大いにあると思っている。

とにかく、実際「しるこ」に限らず、日本の伝統的菓子の類には、そうした許せないほどの「甘さ」のものが少なくない。大体、黒豆をベースにした「あん」の類は皆そうだ。あんまん、もなか、ようかんなどもその例に漏れない。われわれは、伝統的な菓子の甘さとは「そうしたもの」と思っているから食べられるが、初めて出会った者が我慢できないとしても理解できなくはない。そうそう、そのほかに「あまざけ」や、ざら目を大量 に使った「大学いも」、黒砂糖を死ぬほど使った「かりんとう」も忘れてはいけない。私は、あの「黒砂糖からしみ出てくる、えげつない、じゅーッとした甘さ」が、かりんとうのエッセンスだとおもっている。

日本にも、行列ができる「饅頭」の店などがあるそうで、日本の伝統的味付けで、「老舗(しにせ)」と言われるような店では、古くから洗練された味を売り物にしているところもあるそうだが、「洗練」とはそういった観点からいくと、だれでも食べられる「やさしい味」のことかもしれない。老舗として創業百八十年の(180年生き残っている)菓子屋などは、そうした「不特定の多数者」に受け入れて貰える味を追求しての結果 であって、その店の主の「片寄った味の好み」を民衆に押し付けた結果ではない。おそらく、そうした老舗の一代目は、どう云った味を自分が好きか、ではなく、「どうしたら店を大きく繁栄させられるか」というビジネスセンスに長けた人だったに違いない。つまり、「田舎のばあさんの味」とは、不特定の「都会に集ってくる蛮族」どもによってせんれんされていないだけで、そういったものの中に、「え」も謂えぬ 「えげつない、じゅーッとした」うまさがあるかもしれないのだ。そうして洗練とは「妥協」と言い替えることができるかもしれない。

因みに、「しにせ」の「老舗」という文字は当て字で、「仕似せ」が原義で、先祖代々の技を真似るというという意味から来ているらしい。だから、100年生き残っている蕎麦屋より、「創業平成2年」の蕎麦屋の方が美味しいということが起こっても、可笑しくはないのだ。見よう見真似よりも、自分の美味しいと思う蕎麦を追求して、その結果 、長野県かどこかの「水のうまい田舎」に店を構えてしまった、というようなことが起こるのだ。そうした新しい蕎麦屋が東京の「仕似せ」の蕎麦屋に劣るとは必ずしも言い切れないのだ。

さて、日本人は、洗練された味の感覚を誇りにしており、例えば、洋菓子の日本風に甘さを抑えた製法を、西洋にない独特のセンスだと考えている。確かに日本の洋菓子屋さんの作るケーキやクッキーの抑制された味はアメリカで見つけるのは難しい。たまに見つけたとしても、人気のあるイタリア人経営の「キャフェ」ぐらいだったりするのだ。ニューヨークのどこのグロッサリー・ストアでも見かけることのできる、ドーナツやキャロット・ケーキ、チョコレートチップ・クッキーなど、甘さの点でノートリアスな菓子もすべて、彼らの習慣的感覚からして見れば、普通 のものに違いない。「甘いのがあたりまえ」なケーキがアメリカ国内で、甘いままで、なかなか洗練されないのも無理からぬ 話なのだ。

仮に、ニューヨークで、「しるこ」を売ろうと思ったら、アメリカ人向けに「あっさりした」味付けにしなければ、受け入れて貰えないだろう。もし、そのニューヨーク風に「洗練された」飲みやすいしるこを「食べつけた」アメリカ人が本場の、「いなかふうしるこ」に出会ったなら、日本人のセンスを「まったく、野蛮人的な味感覚」と疑ってかかることであろう(あんなあまいもんくえるかよ!)。それで、「やっぱりアメリカ人の作ったしるこの方が旨い」とか生意気にも言うかもしれない。

「不特定の多数者」によって生き残った洗練された味にも一つの真実があるとは思うが、注目されずに辺境の地に残っている味の中にも、味の楽しみの本質が隠されている可能性はあるのだ。

洋の東西を問わず、「ぶんか」などというものは、外に出て、蛮族の手に掛かることによってしか、「洗練」されることなどありはしないのだ。 おわり


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