衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

西洋史と西洋音楽史の呼応性
(あるいは、伝統と個人主義の拮抗について) 予告編
June 5, 2000

まとめれば、音楽史とは「音楽理論の構築(再発見)、そしてその解体」という一連の手続きの記録に他ならない。音楽理論というもの自体が、本来、物理の法則と密接に関連がありながら(あるいは物理の法則による論理強化の助けを得ながら)も、音楽を音楽学と捉えた場合、最終的に、その理論が有効であるかどうかということの確認が、宿命的に「主観的」にしか行い得ない(ある和音がたとえば「美しい、調和している」と感じるか否かというように)点で、他の自然科学とは事情が違ったわけである。そのために構築後の解体が容易だった。つまり、人の安全を脅かすことなく、構築された理論の解体に勤しむことができたわけである。

アリストテレスの理論を反駁すること、というのは中世からルネサンス、そして近代にかけての「科学革命」の300年間、「科学者」が科学的たろうとする努力の中で必要な一通 りの手続きであったそうな。宇宙をどのように正しく捉えるか、ということは、一見われわれにとり「生命の安全」や「生活をよりよくする実践的技術」と関わりがないようだが、生きるために、組織、わけても宗教組織の絶対的権威を必要としていた時代に、その拠り所とする教義と矛盾するような理論の登場は、非常に危険でありえたわけだ。しかし、実際は「アリストテレスの理論自体が、非聖書的である。私の主張する、太陽を中心として天体が運動する宇宙のモデルは、一向、教会の権威を損なうものではない。それどころか、私は自分の信仰告白を自己の理論を通 して表明するものである!」みたいな信仰を大上段に振りかざした「科学者」(この時代、ほとんどの「科学者」がこれと大同小異である*)が、宗教的な時代のパラダイムの中で「科学的」主張を展開したわけで、われわれの多くがそうであるように、すべては自分たちの属する時代をよりよく強化することの一環であったりしたのである。むろん、有効と思えるさまざまな世界観が記録や相互のやりとりを通 して蓄積されていく中で、宗教の教義が字義通りに捉えられない、なんてことに気が付いたりもしていくわけで、あやうく世界観そのものの再構築がなされそう、になったりするのであるが、「世界観に関わる科学」というものがいかなる受難を通 過したかは、想像にあまりあるのである。

*このあたり、
H・バターフィールド『近代科学の誕生』上・下(講談社学術文庫)
村上陽一郎『文明の中の科学』(青土社) に詳しい

その一方、「音楽の理論」を反駁することのいかに容易であったことか! そも音楽理論の登場が、「個人尊重」の趨勢に伴って現れた「人間の学」みたいなもので、人間の嗜好(テイスト)に資するものであり、嗜好そのものが多様化したり変わってしまったりすれば、くるっと理論自体を修正できてしまう類のものであった。音楽の「霊的効能」より「個人の楽しみ」に資する、より複雑且つ洗練された「エンターテイメント構築の理論」であった(なんちゅう単純化!)と言うことができるわけである。そこには、アリストテレスの理論、あるいは旧約聖書の「創世記」に挑戦する科学革命時の「科学者」たちの通 過した意味での革命の意義を見出すことが難しい。なぜなら、彼ら音楽理論家たちは、自分たちで作り上げた理論をもう一度自分たちの手で壊せば良かったからである。

歴史と音楽史の終末点、またはひとつの結論(December 1999)

歴史の終末点はひとつではない。仮に暴力的にこの歴史に終止符が打たれたとしても、その時点でさまざまに枝分かれした表現のあらゆるバリエーションの存在が「確認」されるはずである。そのときが来るまで、そして人類の活動が続く限り、すべてのものが誰かによって受け継がれ、何らかの形でその活動の基盤となるセオリーが、引き継がれた形態の中に観察されるべきだからである。

例えば、西洋音楽史というひとつの文化の歴史を「生命の樹」として想像してみる。そうしたとき、例えば、誰にも相続されずに終わってしまう、「様式」や「セオリー」を開発した人が、歴史上に現れるはずだ。そんな誰にも相続されないアイデアを含むありとあらゆるものが、最初にまかれた種のなかに内包されていたのであり、表現の多様化こそが来るべき日までにすべて地上の世界に花開かれなければならないということであったのである。そこで、相続されないものたちの、まったき自己目的的かつ自己完結的な究極の表現として自己を終えるときがくる。すべての花が種になるわけではない。しかし「花であった」「花として存在した」「競い合って花開いた」ということ自体が「栄光であった」と考えることができるのである。

ここで、最終的に伝統という種(たね)のメカニズムが保持していた最後の目的表現として、個人主義というものが台頭する必要があった可能性は否定しようがなく、それは「伝統の仕掛け」と矛盾するものではなかったばかりか、驚くべき逆説として両者が一致し、補完しあうものであったという話で、この論の円環が閉じて終わる。


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