衒学者の回廊/園丁の帰国直後の言の葉:1994-1999

修正の効かない過ちとしての統一番号制管理社会
April 7 - August 11, 1999
 
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住所基本台帳、年金管理、健康・医療関連情報、賞罰歴、etc.といった複数種の電子データの統一番号制による集中管理というシステムの危険というのは、そうした集中によってもたらされる個人への恩恵(煩雑さの解消)よりも、「必要ならば個人の思想的傾向や行動に関する調査や把握が可能である」ために起こる政府による個人の自由の制限というほぼ避けがたい事態が容易に予想しうるのである。

このたわごとは、個人情報を悪用するのではないかという単に政府や行政に対する不信なのか。いやおそらくそうではない。むしろ人間に対する不信なのである。情報テクノロジーの扱いに限らず、人間が文明活動としてやってきた、ほぼあらゆる活動に対する不信なのである。うまくやってきた部分があることは認めよう。しかし、人間が、特にテクノロジーに対する扱いという面でよかれと思って取ってきたギリギリの選択、というものが、きわめて多くの場合、悪い方向へ行ったり、あきらかな悪用という局面を防ぐことが出来ずにここまで来てしまっていることは余りに明らかなのである。

そう。そして、このようなものの言い方を続けると、いわゆる反文明主義者の主張のようにしか聞こえないかもしれない。しかし、我々が頼りにしている技術文明を捨て去るべきか、利便も不便もすべて受け入れるべきか、というような「全か無か」といった態度表明をしなければならないと主張しているのではない。ここではむしろ、どこに制限(regulation)を設けるべきか、という程度を問題にしているのである。「いや、ひとたび文明の構造(ありかた)を受け入れてしまえば、とことん行くとこまで行くことは避けられない」などという単純明快な意見も聞こえてきそうであるがそういうことではあるまい。

文明の避けられない「行き先」などというものは、確かにどこぞにあるだろうが、それは人間のあくなき文明活動と自然環境との対決をもって起きるべき(起きてしまうであろう)ことであり、人間がつくり出し、人間に向けた、人間のためのシステムに対して、どうしようもないこととして甘んじて受け入れなければならない謂れはどこにもないのである。むしろ、今度のこの「情報化」の方向こそが、ストレス多き社会の中で、未来はどういうものか分からない、という「唯一の希望としての不確実さ」すらも捨て去ってしまって良いのか?と問いたいのである。

限度、程度と言えば、色々あるが、すべての文明行為にはなんらかの人的ないし自然科学的制限が設けられているものである。交通規則などのように物理法則と人的な考慮の結果設けられている事象もある。人間の肉体や判断でもって制御可能な自動車のスピードなど、限界はさまざまある。ある重量と構造をもった自動車が、あるカーブを曲がりきることの出来る最高速度はいくらか、というように決まってくるからである。例えば、ある車に対し時速200キロのスピードで走ることの出来る能力を与えたとしても、ある特定のカーブにおいて安全に曲がるには、時速40キロ以下に車の速度を落とさなければならないだろう、という風に自ずから決まってくる。人間の肉体的ないし精神的ストレスが耐えられない文明の洗練のレベルというものは、「ある速度ではそのカーブは曲がれない」というような意味で、どこかに存在しているはずのものである。生活環境における騒音の大きさや、明かりの照度、快適な部屋の温度などもそうである。また、工業デザイン的な観点で言えば、「速過ぎるエスカレータにはひとが乗り移れない」という事態にもなるのであって、要するに、速いと言うことは一般に便利とは言われるものの、速すぎて人間がそれに堪えられない、という限界というものがあるはずなのだ。あるいは、利便に代えられない人間の自由の感覚というものがそれなのかもしれない。

さて、こうなると私は単なる心理的ストレスや肉体の限界にかかわる話をしているだけなのか。そうだと言えば、話の重要性を軽視する者も出よう。どうしてひとの情報を一元的に管理する(プライバシーを簡単に覗くことが出来る)ということがそんなにいけないのか。悪いことを計画しているのでなければ、あんたには関係ないしいいではないか、というのが推進派の言い分であることは既に述べた。しかし現在の世の中に悪い部分があるのであれば(そしてそれは当然ある)、それを改善できるチャンスを残しておくべきである。世界がひっくり返ってしまえばよいなどと言う無政府主義・過激派まがいの話をしているのでもなく、歴史の必然として、支配層が腐敗したとき、それを是正する機構を残しておかなければ、支配する側ばかりが楽で、それを改善しようとする側に大変な労苦のある社会ができあがってしまうであろうということを憂いているのである。

最初、こうした「国民総背番号制」として捉えられる情報化推進の運動の中心には、ほぼ陰謀と呼ぶにふさわしいような、限られた人々による『申し合わせ』があるのでは、ということすら疑わずにいられなかったが、現実はそういうことではないのかもしれない(もちろんそれはことの重大性を少しも軽減しないのであるが)。

すなわち、そうした情報化推進を図る集団を代表するような活動家、発言者による局部的な策略・計略というものは、あくまでも戦略的な意味あいとして個人レベルでは存在しているだろうが、実際に起こっていることは、いわゆる各界に於ける有力者と言われる人々が、真の思慮を欠きながらもそれぞれに「良かれ」と思って発言したり、行動したりしていることの積み重ねが、将来における不幸を誘発してしまう、ということであって、組織的な陰謀があるわけではない、という考え方である。これは、あるいはかなり楽観的、もしくは「人間に対する不信」といっている割には、ヒューマニティを信じている類の発言、なのかもしれない。ただ、そうした個人的な行動家・発言者がどのような立場で、一体誰の利益を考えて行動発言しているか、という見極めの努力を避けることはできないのである。

「背番号制」が敷かれたとしても、それで困るのは、「悪いことをしようとしている、あるいは悪いことを実際しているひとだけだ」という悪意とも良心ともとれるような発言のなかにも、その考え方の浅さとして見出せる。だが、一体誰が「公共の利益だ」と謳わずに何か社会的な制度を敷くことができるのであろう? かりに、若者を明らかな不条理と分かっているような戦場に駆り起てるための徴兵制にしても、実際に命を落とす危険に身を曝さねばならないのは若者であっても「公共の利益を守るため」という理由は必ず戦場に赴かない者どもによって用意されているものなのだ。すなわち、そうした公共の利益そのものに対して、明らかな疑惑があったとしても、それが一旦認められるや、それに対するあからさまな反対、もしくはそれに付随する運動に身を投ずることは、たとえば、戦争を推進しようとする彼らの側からすれば、「悪いこと」になるわけである。情報を管理する側が正しく、そうした管理から逃れるすべを確保しようとする側が必ずしも「悪い」となぜ言い得よう? かならずしも、税金から逃れるといった種類の「管理からの自由」ばかりとは限らないのである。

自分たちが絶対に間違った選択をしていない、自分たちにこそ正義がある、と信じていること自体が彼らの思い上がりであるが、仮にそのように考え、しかもすべては国民の福祉や利便のためだという「良心」と「確信」をもって推進しているのであるとすれば、それは余りに浅薄で、独善的な考えと言わねばならない。むしろこの方策として、そのようなシステムを入れておけば、支配者としての自分たちの現今の立場を優位に保つだろうことを「無意識」のうちに知っているということに他ならない。支配者の側にいる者たちは、情報を自由に検索したり把握したりといった面で利用し、その地位を保持するであろうし、自分たちの地位を揺るがしかねない思想の持ち主の行動を監視するのに非常に便利な道具となるはずである。

そこには、「人間の築いた制度にはどんなものでも必ず長所と短所がある、それをどう制御するかが文明人に科せられた課題である」といった「調整メカニズム有効の原理」でさえどうにも修正の効かない大きな過ちの選択がある。「日本の縦型行政と官僚のセクショナリズムが健在である以上、そう簡単にこのようなシステムが構築されるとは思えない」などという一見悲観主義とも捉えられかねない「楽観主義」もあるようだが、それは今起こらないから大丈夫とか、将来の問題だから自分とは関係がない、という考え以外の何ものでもない。そう簡単には起こらないだろうから大丈夫という問題ではなく、遅かれ早かれ何としても実現にこぎ着けようという意気込みで、その制度実現に邁進している今日の推進派の努力によって、我々の子孫の代で必ず実現されてしまう類のものだと知るべきである。もし今我々が何もしなければ確実に。

関連サイト:
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