衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

国家のための最小単位 、それは家族
あるいは「三人寄れば、なんとやら」
June 10, 2000
 
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私はつい先だってのエッセイの中で、うかつにも「社会という以上、そこには2人以上の構成員が必要」と書いた。むろんこの部分が、私の言いたかったことの主旨ではなかったのでそのような不完全な言い方になったのであろう、と言い訳はできる。いずれにしても、おそらく上記の表現は、本来社会が第3者を含めて初めて成り立つのだ、というより興味深い洞察(6月9日のCafeへ)を視野に入れずに表現してしまったものにほかならない。愛郎さんによれば「3人寄って」はじめて社会と言えるものになるということであり、彼がそこで論証しようとしたことは非常に興味深く、ある面 なるほどとさえ思う。ただ、2人の関係が互いの外交努力によって社会と言い得るようなものになるかもしれない可能性は依然としてあるようにも思える。(さて、これを私のこの前の話と絡めて話すとどうなるだろう。)

3人が最小の社会であるということは、カップルは既婚未婚に関わらず、まだ社会以前の状態でしかないということになる。ただ、「1人の国家」というものが概念的に有効であるというさらに興味深い観点から言うと、既婚未婚に関わらず、それは「2人の国家である」ことも可能ではある。ただし、それでうまくいく国家もあれば、ロクなもんじゃない場合もあるだろう。要するに、その「2人国家」が社会的であるかというと、そうとも限らないということになるのであろう。愛郎さんに言わせれば、既婚未婚を問わず、あるいは2つの「1人国家」による不断の外交努力によって成り立つ、ひとつの「お付き合い」であり続けることはでき、その点にこそ彼の論の鋭さがあると思う。もちろんその関係は「外交努力」によるものなので、何の将来的な保証もない。いつまでも幸せに暮らしましたとさ、というケースも稀にはあるかもしれないが、なかなかそういうわけにはいくまい。ただ大いにあり得る状態としては、「2国間」の外交努力によって打ち立てられた条約があるので、取り敢えずその条約の期限が切れるまでは我慢して付き合い続ける、なんてことかもしれない。いずれにしても、カップルがよい状態であり続けるためには、それぞれが独立した「1人国家」であることが前提となり、それらが出会った時点で互いのルールをわきまえた上での外交関係へと進むべきなのだ、となる。

さらには、愛郎さんの論理によれば、「家族」は国家の最小単位でしかない、となる。この論理の前では、「家族は、最小(単位 )の社会である」という私の主張も不完全なものでしかない。「家族は、最小(単位 )の社会のひとつである」かもしれない。そこにはそれ以外の最小単位 の社会も存在するだろう、という言外の含みが生じ、表現的にはより正確さを増すはずだ。しかし、結婚という制度が国家による恒久的な政策に他ならないとするならば(そしてほとんどの場合そういうことであるわけだが)、やはり、「家族は、最小(単位 )の社会のひとつである」と言ってもそれでもなお不十分であり、そこには、「家族の価値」(family value)が国家の安定の条件であることを押しつけようとするキャンペーンの傘の下の主張として利用される可能性を残してしまうわけだ。このあたり、私の舌足らずの論理によっても、なお十分に語られたとは自負しているが、やはり、その主張をさらに強化するにあたり、言い換えなければならない部分が生じたと思う。

「国家の 最少単位は家庭。家族は最小単位の社会のひとつ。でも社会の最小単位 、それはあくまで個人」と言うべきだったのかもしれない。


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