衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

興味深い青年
May 29, 2000

興味深い青年に出会った。もっと正確に言うと、ある青年に出会って彼が興味深い青年であることが、おくればせ15時間後に分かった、となるのかもしれない。通 常なら、最初に会った印象で興味深い人かどうかの(性急な)判断がなされるか、あるいはそうでなければ、出会いを重ねるごとに深まる認識によって相手への興味がさらに深まる、というようなことの方がありそうなことであるが、この青年に関しては、第一印象そのものからどのような人物であるかは、まったく図り知れなかったにも関わらず、その15時間後にかれが「途方もない人物」であることをインターネットを通 じて劇的に知らされる、といういかにも今的な出会い方をした、というわけである。

この青年、Airo君は、つい先日の日曜日(5月28日)ギターの榎田君のライブを聴きに来ていたのであり、私も彼もライブの観客のひとりであったわけだが、その接点は、したがって「榎田君である」ということが言えるわけだが、そのライブ後のお茶会の席で皆の口から出た言葉は、この青年、Airo君のウェブサイトのすばらしさについてであった。(榎田君には悪いが、ライブがどうのということよりも、Airo君について考えられることを書くことの方が重大になってしまった。)

要するに、互いの興味の領域を確かめるべく、あたり構わずさまざまな話題に会話を花開かすことで時間を費やす、といったこともなく、すくなくとも私は彼のウェブサイトを通 して一方的にAiro君のことを「かなり深く」知ることができたわけだ。もちろん、本当に彼の謎のすべてが解読されたなどという不遜なことを言おうとしているのではなく、これから重ねられるかもしれない出会いを通 して、彼への理解をより深めることはできるのであろうが、いまは、あのような文章を書く才能を持ち、その才能を余すところなく発揮しつつ積極的にその内容を世に問う努力を実行している若者がいる、ということを知るのはそれ自体が驚きであった。(じつは、それは書く能力ではなく、考える能力によるものなのであるが。)

そもそも驚く必要があるのかどうか、という話はあるだろう。しかし、世代や帰属するグループから帰納的推論をして、ある個人の人物判断するようなことを戒める発言を普段からしているこの私自身が、口にはしないものの、いわゆる「近ごろの若い者は...」式の、すべてをひっくるめて単純化してしまう思考パターンに下手をすると陥り始めていたのかもしれないのだ。こんなことに気が付くと、私くらいの30代半ばの人間は、「もうわたしはおじさん/おばさんだから」というようなことを口走って、「私もう思考停止してます」みたいなことを自他に半ば宣言し、他人の寛容に甘えることもできるんでしょうが、Airo君の出現は、直ちに「おいおい、ぼやぼやしてると、簡単に追い越されてしまうぞ(もう追い越されてるぞ)」と自戒を促す警鐘のようなものになったのだ。

私は彼の書き込みを読み続けるだろう。できることなら(彼が望むなら)、時間の許す限り、彼と文章のやりとりさえしたいものだ。しかし、ここで言いたいことは、とにかく榎田君のパフォーマンスを通 して、そしてまたインターネットを通して途方もない人物に出会ったということ、そしてこの途方もない人物のつくるサイトが、その見てくれの上で「すばらしい」ということでは断じてなく、ほかでもない彼の書く文章が、世間の「浅薄な世界の認識のしかた」からまったく自由に、あらゆるものを題材に論じているという点である。かれの「ものを考える」ということに対するコミットメントは、日常の何気ない会話や生活のなか、そして音楽や美術といった活動や鑑賞をきっかけに、ほぼ毎日のように溢れ出てくる思考を書き留めるその努力から分かる。

そしてAiro君は深刻になりがちな題材を、軽妙で誰にでも読める語り口で、書く。ぎこちない私の文章とは比較にもならない。難しい内容を難しい言葉で書くことは、おそらく簡単だ。また、どうでもいい話を難しい語句を並べて書くことも実は簡単だ。また、ありもしない(かもしれない)ことを神秘的な語句を並べて人をけむに巻くこともできる。そも文章を書くということは、つねに「何事か」を伝えるための伝達行為であったはずなのに、「何事か」も伝えないための修辞上の課題にも深く関わってしまいがちだ。むろん、Airo君の文章が、技術的な課題を克服する努力を大いに払ったあとの賜物であろうことは想像に難くない。誰でも最初から文章がうまかった、ハズがないからだ。それでも彼の文章の説得性は、その純粋に技術的な卓越にあるのではなく、その技術と不可分に結びついた内容そのものにあると言い切ることができる。

人間は言葉を使って考える以上、よく発達した言葉の技術は、モノの考え方そのものを大いに刺激するだろう。また、発達した言葉でしか到達できない思考の領域もある。Airo君の文章を読むことで、私は、物事の考え方をサポートする言葉というモノのあり方を再認識することを余儀なくされたと同時に、文章を書くだけでなく、物事の発想の仕方そのものが鍛錬によって獲得しうるものである、ことを信じることになったのである。

私は今、興奮している。これからのAiro君とのやりとりを想像しながら、また、彼から得られる刺激をさらに自分のものに消化して、自分自身が「もっと書ける」ということを、想像しながら。


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