衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

アマチュアの聖域[1]
February 19, 2000
 
English version

まずこの論を進めるに先立って断っておかなければならないことがある。私がこれから何度も使うであろう、「アマチュア」という言葉は、その対象となるかもしれない人々やその人々の作り出した創作物の価値をまったく損なわない、ということである。むしろ、私は「アマチュア」と呼ばれる人々を称えて止まない。これはむしろ信念としてアマチュアの支持を表明するものである。

定義をするならば、彼ら「アマチュア」は(我々を含めて)、関わっている創作行為を生存のための手段、すなわち職業として行っていない、だけのはなしであり、その内容(あるいは質)が世間で言うところの「アマチュア的」かどうか、ということとは何の関わりもないのである。内容や質を以てアマチュアであるか否かが決まるのであれば、世間には「アマチュア的なプロ」(amateurish professionals) がゴマンといる、という言い方もできるのである。「ヤツはそれで食べてはいるだろうが、その内容は何ともね」と云うことである。であるから、誰かが「アマチュア」であるという理由だけで、みずからの価値を疑う必要は全くない。内容や質で勝負できると信じるならば、今日から彼は「プロフェッショナルなアマチュア」(prefessional amateur) を目指すことを決心できるのである。

んー、そうは言っても、「アマチュアという言葉には、やはりその人やその人の創作物の価値を格下げする判断が含まれている」と信じざるを得ない人がいるとすれば、それはひょっとすると、或る人がアマチュアであるという現実を、彼の創作活動へのコミットメント(専心・専念)の度合い(degree)が低いからである、と断じてしまうからなのかもしれない。それは、ある程度までは的を得た言い方であるかもしれない。つまり、もし或る人が本当に自分の関わる創作活動へのコミットメントを抱くなら、それにしか人生の時間を割けないだろうし、したがってそれに打ち込み続けることで彼は結果 的にプロフェッショナルになるはずだ、という論法によるものなのだろう。しかし、それは幸運なことであった、と言うよりない。優れた創作家が全てそれによって衣食住を得る...というのは「はず」ないし「べき」を最後に付けて初めて成立する、期待論ないし理想論に過ぎない。それには次のような理由を以て反論を試みることが出来る。

もし、優れた創作家が全て「プロ」として喰っていけるという現実が社会に用意されているのであれば、それは「幸い」であるかもしれない。

「幸い」と括弧付きで書くのは、そのような「創作家にとって福祉の行き届いた恵まれた社会」というものが、実際には活きるに厳しい世界の現実を創作家に知らしめることにならないからである。もちろん、「夕食の消化を助ける」ようなエンターテイメントを社会が必要とするならば、すべての創作家が「プロ」として喰っていけるくらいのお膳立てを社会自体がしても良い訳なんだが。

しかし、ある創作物が、世間に容易に認められないにも関わらず、その価値が後々に認識されるということが多々あるのを思い出すのは有益かもしれない。もちろん、後世に認められると言うことが、その創作物の普遍的な価値を意味するのかというと、それはそれで大いに疑問を挟む必要がある。ましてや、ある時代生存している人によって作られたもので、同時代的にすでに認められているものが無価値である、ということを言おうとしているのでもない。しかし、あるものの価値が、その人の生存に必要な最低限のものを約束すると言うことは、残念ながらかならずしもあり得ないのだし、そのようなことはない方が良いのである。(その理由は後述する。)と、するならば、現在創作活動に従事している人が、その創作活動以外のところで、生存に最低限必要な条件を満たす努力をすることは、むしろ必要なことと言えるわけである。餓えて死んでしまえば、創作活動どころの話ではない。

「有名な人はすべて偉大である」などということにはまったくならないにしても、我々が知っている創作家の中の「著名人」が、その創作活動で名を成す前に何をしていたか、ということを幾つか挙げるのは(本論の説得力の面 で決め手にはならないものの)、ある程度有効であるかもしれない。

たとえば、T・S・エリオット。彼は、銀行員であった。世間のお気に入りであるところの、彼の代表作の多くが、彼の「詩人として自立」の前に銀行員として働きながら書かれたものである。物心付いた時点より、一つの詩作という分野だけで活動しなかったと云うことは、彼の詩作へのコミットメントの足りなさを示すことになるのだろうか。

また、保険会社の起業家かつ社長として社会的に大成功したチャールズ・アイヴスが、「音楽の作曲家部門」の歴史において多大なる「業績」を残したとされ、かつ現在もその作品のいくつかがくり返し人々を喜ばしているという事はどうなるのか。

マーガレット・ミッチェル(『風とともに去りぬ』の著者)のように生涯、およそ代表作と言われるものを一作品しか残さず、家庭の主婦として、あるいは夫の妻として活きた事で、彼女の人間としての、あるいは創作家としての価値が過小評価されるべきなのか。彼女は、作家としては「アマチュア」であったのである。

作家のプロとして活躍したジェームズ・ジョイスの全作品が「彼が書くことのプロであった」というその理由で全て等しく評価されなければならないのか。

もっと古くにさかのぼると、レオナルド・ダ・ヴィンチのようにあらゆる分野で活躍した人は、どの分野において「プロであった」と言えるのか。全ての分野において彼はアマチュアであったということではないのか。あるいは、もし彼が絵画制作によってパトロンから生活費を得ていたとすれば、絵画以外のあらゆる分野において彼はアマチュアであったという方が正確かもしれないのである。

あるいは、普段、木こりなり猟師として生計を立てている者が、折を見て吟遊詩人や語り部として伝統世界を世間人に垣間見させると言った類の行為は、芸能人(これが本当の芸能人)として喰っていないことでその価値が格下げされるのか。

以上のように、うまくしたとして、誰でもある一分野に於いて幸運なことに<専門家>であるに過ぎない。この<専門家>というのがそもそも曲者だ。だいたい、専門化がここまで高度に進んでいるという世界の状況が、非常に今日的な現象なのであり、ある意味で病的とも言える事態と考えられるべきである。

それを極論であるとする向きもあるだろうが、誰でも自分の創作物を売ろうと思えば、その時点でそれは商業主義である。インターネットで欲しい人にだけ一つ一つ手でつくって売る、という方法も、大きなコマーシャルのチャンネルに乗っていないだけで、スケール(規模)の違いこそあれ、商業主義の始まりに他ならない。そこにはどうやったら売れるか、の計算がある。もちろん、商業主義そのものを否定しない。満足できるものが創れたから、分かち合いたい、それなら売ってみよう、と言うのは結構なことである。しかし、そのような「純粋な動機」で始めた創作家達が、小さな成功を期に、気付かずによりスケールの大きな商業主義の道に踏み出す例は沢山ある。「良いものは、売れるのが当たり前。自分の作品が売れたのも、それは作品が秀逸であったから」という意見に一夜にして豹変するといったことがあり得るのだ。

あらゆる商業主義をいけない、と言う論理はそれはそれでもちろんあるだろうが、ここで私は、論理の一貫性の話をしているのであって、商業主義をいけないと言っているのではない。ただ、商業主義を否定するような言辞を述べた者が、知らぬ 間に「転向」しているのは恥ずかしいことだと述べているだけである。


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