衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

コミュニケーションが幻想かもしれない/であること
October 31, 2000
 
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われわれは、自分の主張するところを他者に理解されたと感じるとき、何を以てそうだと断ずるのであろう。あるいは他人の主張を理解したと思うとき、なぜそうだと思えるのか。

不完全定理を持ち出すまでもなく、われわれがわれわれの話す言葉が正しいかどうかを、その言葉自体で証明することはできない。われわれが何かをコミュニケートしたと感じるとき、それは単なる誤解であるか、コミュニケーションという幻想を共有しているか、どちらかであり、また、万にひとつにもコミュニケーションが事実「成立した」としても、それが成立したことを証明できないのである。つまり、われわれは理解し合ったような気がするだけであり、本当に理解し合ったかどうかさえ確かめようがない。しかし、現実生活では誤解であってもなくても、そこに「誤解がない」というある種の確かな共有感があれば、それで十分とされるわけである。

E・カントが『純粋理性批判』で論じようとしたこと、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で示そうとしたこと、そしてB・ラッセルが数学に対してその完全性(無矛盾性)に不安を覚え、クルト・ゲーデルが最後的に「不完全定理」で証明したとしたことは、きっと同じ様なことなのだ。それは、われわれの使っている言葉自体が、すなわち、われわれが生まれてこのかた現在にいたるまで何の「不自由」もなく運用されるようになったと考えている言葉自身が、一度たりとも、正式に、超越なる存在から、「定義」として、言葉以外の道具でもって、指し示されたことも、教えられたこともなく、われわれの使っている言葉それ自体が、アプリオリ(「始め」から/先天的)に正しいものであるという前提(思いこみ)ですべての「コミュニケーション」が試みられている、そのことである。

たとえば、ここに数字の「5」がある。それでは5という概念を数字以外の何かで絶対に誤解のない形で定義を下すことができるであろうか。5はまぎれもなく5であり、5以外の何ものでもない、証明や定義は不必要なほど自明である、という理由で、たとえば「5」という言葉(数字)の定義をすっ飛ばして、その他のやはり不確かなあらゆる数字を使って高度に複雑な体系を編み出しているのが数学である。「5」は「1というまた定義不可能な数字が5つ集まったもの」と循環論法的にしか説明できない概念なのである。そして、数学は、アプリオリに正しいと考えられているすべての数字でもって体系のなかで矛盾なく成立している、と考えられているものである。1を定義しろと言われたら、5を5で割ったときに得られる回答がそれだ、という笑い話みたいな定義もある。

しかし、もちろんこの話は笑い話どころではなくて、(19世紀から20世紀への)世紀の変わり目に、数学の根本をより確かなものにしようという運動が数学界で盛んになったとき、より複雑で高度な定理を見つけだすよりは、それとは反対に、長いことその「真」が疑われたこともなかった、より単純な数学の公理や定理の再検討を広く行おうとするものであった。こうしたまじめな運動の中で、ある意味当然のことであるが、我々が疑うことなく使っている数学のいわば「基本単位」たる数字そのものにまでメスが入れられたわけだ。すなわち記号自体の定義である。私も一度見てみたいと思うが、G・フレーゲは、ある「数字」がある「数性」を誤解なく表すための「定義」を行うべく努力したという。成し遂げた(というか、成し遂げられようとしていた)仕事のひとつが「数の定義」であるらしいが、ラッセルの「不確かと矛盾とパラドックスのない数学大系を構築することが不可能である」ことをある程度突き止めた努力によって無価値にされた。(これについては、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』page 176-188辺りが面白い)

このような最も純粋で、誰の目にも確かであると信じうるものでさえ、数字が数字自体を証明もしくは定義できないと言う理由で、疑わしいものである、と言いうるのであるが、それをまとも言えば、「あいつはおかしいのではないか」と言うことになる(そしてそう簡単に言ってしまう人は、すでに「先天的」にカントの扱おうとした問題を理解できないのであるが)。しかし、この言葉の、そして数字の定義ができないことにまともに対峙して、定義できないことを「証明」したのが、ゲーデルであったというわけだ。彼は、あらゆる理論が矛盾していないことを証明できない、と断じたワケである。

数学でさえ、不確かなものなのだ。我々の日常の会話で出てくる言葉についての精度は推して知るべしである。たとえば、Aにとっての「ジャズ」は、Bにとっての「ジャズ」とは異なる。Aにとっての「ロック」は、Bにとっての「ロック」とは異なる。Cにとってそのような言葉は意味がないかもしれない。彼にとって意味があるのはおそらく「現代音楽」だけである。ただ、それら音楽のカテゴリーを表す言葉でさえ、何を指しているのかの確認なしに、AやBやCのあいだで「ジャズ」や「ロック」に関する会話が始まる。どうして、Aが何を指しているのかも知らずにBはAの考えにあれこれ意見できるのか? Aが「ジャズ」というときは、彼が素晴らしいと考えている種類の音楽を指しており、「ロック」はつまらない種類の音楽を指しているだけかもしれないし、Bにとっては全く逆かもしれない。Bは良いと思っている音楽をすべて「ロック」と呼んでいるだけかもしれないのである。自分が良いと思っているもの(good)が自分が良いと思っていないもの(not good)に比べて良い(better)のは当たり前である。

O(作品)=自分が良いと思っている音楽
P(カテゴリー)=自分が良いと思っていない音楽を除くすべての音楽

OがPに含まれているのは当然のことではないか。

だいぶん話が逸れた(もっと脱線したい人はこちらへ)。コミュニケーションの幻想についてであった。世界はコミュニケーションが幻想であることを着々と証明してきたわけだが、われわれの人生は依然として続く。あいかわらず対話や会話や口論という日常レベルでの「言葉の交換」は進んでいく。われわれが話が通じると思う(幻想を抱く?)ときにそれが意識されるときに起きていることは、ことによると、カテゴリー認識の共有であるということかもしれない。つまり、仮にAとDが同じもの(「2つ」のものの同一であることが確認されたとして)を同じ名前で呼ぶとき生じる現象なのかもしれない。男どもが集まって女の趣味を語るような(あるいは女どもが集まって男の趣味を語る、でもいい)場面で「あんな女のどこがいい?」という意見の不一致は、極端な話だが、複数の人間を敵と味方のグループに分ける。あれだけ音楽については意見が一致しなかったAとBが、不思議と女/男の話で意見の一致を見ると、そこでカテゴリー認識の一致が確認でき、突然「仲間」であると思うかもしれないのだ。そして、コミュニケーションの努力とは、女についてや、ジャズやロックについて何か新しい深遠な真理を語ることでなく、結局は単にカテゴリー認識をより広範に共有しようという努力の積み重ねに過ぎないのかもしれない。

女について同じ見解を持ち、音楽について同じ見解を持ち、仕事について同じ見解を持ち、食べ物について同じ見解を持ち、政治について同じ見解を持ち、郷土について同じ見解を持ち、そして信じる神について同じ見解を持つ。同じ見解の共有はまさに外と内に平和を約束するものであり、内でのカテゴリー認識の一致が確認できると、自然と愛が育まれたりもする。(ここで、多様性の哲学との対立点があったりして、それはそれでどんどん脱線していくのも良いかもしれない。)

まあ、早い話が数学者が不完全定理でもって我々のコミュニケーションの不確実性を証明したとしても、我々はより良く表現する義務から自由になったと考える必要もないし、より良く生きる意志を挫かれたと考える必要もあるまい。ひょっとすると、不確実性が証明されたところで、何よりむしろ「内なる確実」を目指すことに価値を見出す人も出てくるかもしれない。いずれにしても誰がなんと呼ぼうが自由だが、われわれは「幻想」という名のリアリティを生き抜くしかないのである。


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