衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

得られるまでが花
November 1, 2000
(Largely extended on Jan. 8, 2001)
 
English version

簡単に得られるものに対して、我々はもう興味を持てない。不便は我々にそれを解決しようする努力にかり立て、利便そのものは得た瞬間にまぼろしとなる。もはやそれは重要性を意識するようなものではない。「必要は発明の母」ならば、「不便は歓喜の恋人」だったはずで、「一度寝てしまえば過去の女」ってのは単なるナンパ屋さんのノリで、「利便は一度味をしめるともう空気」みたいなもんだ。(自分でも何を言ってんだかわからない。)

さて音楽の好きな人なら、10代の頃、初めてラジオで聴いて好きになったポップス(クラシックでも良い)が、誰によって演奏された何という題名の曲かも分からず、一生懸命レコード屋でさがした経験が一度ならずあるかもしれない。そしてようやくそれが何であったのかを割り出し、ついにレコードを手に入れた!その頃には曲に対する情熱のピークが過ぎている、なんてことが。我々はハント(狩り)するのが好きなのだ(あるいは消費するのが好きなのだ)。しかし獲物が手中に入ったときは既にそれに対する興味が失せている。そしてもう次の獲物を探し始めているのである。でも創作活動や恋愛もそんなものだ、とか言ってしまうと、それはそれでこの小論では検討不可能なほど広範な課題を含む話題となってしまう。だが、そちらの方へ話を拡張させるのは今回あえて止めよう。(いつかやろうっと)

私が今回ここで主に問題にしたいのは、きたるべき次世代メディアや高速大容量のインフラやらが我々にもたらす「新しいエンターテイメント分野」にかかわる話である。(?!) つまり商売に関わる問題だ。IT革命やらで、好きな映画や「アーティスト」のライブが好きなときに好きな場所で楽しめるいう状況、あるいは24時間放送局から垂れ流されているテレビ番組やデータ放送などをすべてをHDDに貯めていって好きなときに好きな部分だけ利用するとか、そんな状況などが正に私の問題にしたいことなのだ。それらは今すぐにでも実現しそうな勢いで業界や消費者を巻き込んで現実のものになりつつある、そうな。

映画や音楽が好きなときにすぐ見つけだす事ができ、しかもそれを自分のコレクションにもできるという状況は、確かに非常に便利に聞こえる。しかし、こうしたすべてに対してランダムアクセス可能な状況は、我々を幸せにするのか? 映画なんてものは、ビデオデッキを持っている人なら既に知っていると思うが、好きな映画がテレビで放映される段になって、ようやく録画して「自分のものにする」や、テープを貯めるばっかりでまったく見なくなってしまう、なんてことが多くの人にはあるだろう。

ネット販売で、今まで手に入りにくかったものが何でも手にはいるようになったとき、とりあえず注文しておいてそれが配達されても、当面必要のないものであったら、ひどい場合は、どこかに放置されているなんて事もあるかも知れない。ソフトウエアも日ごろから酷使しているソフトならバージョンアップの頻度に付いていけるかも知れないが、とりあえず買っておいたソフトなんてものは、それに馴れる前に新しいバージョンが発表されてたなんて事もある。必要になったときにその都度迷わず手に入れるということをしなければ、部屋の中は不要なものばかりで一杯になってしまうだろう。

ようするにいつでも使う(見ることが)できると思うと、それは後回しになり、たとえば「映画を見る」なんてことより重要なことが日常ではどんどん優先されていくわけで、ディストリビューションの面が便利になればなるほど、好きなはずの映画の優先順位が落ちていくのである(O lord, mercy mercy me!)。これって言うのは、映画を見る人にとっても不幸であるばかりか、映画や番組を作る人にとっても史上最悪の状態ではないのか。つまり「生もの」であれば何一つとして見逃すことなく真剣勝負で注意深く見るかもしれないのに、一旦録画された、とかいう状況になると、それに対するリスペクト(尊重する気持ち)が断然なくなるのである。「いつでも良い」というのは「いつでもダメ」と言うことで、「いつでもそこにある」と思ってしまえば、「永遠にそのときは来ない」のだ。だって東京に住んでいる人は東京タワーに登らない?し、NY NYの住人はThe Statue of Libertyを観に行かない。私なんぞは自慢じゃないが、マンハッタンのド真ん中に住んでいて、興味のあったミュージカルを一度も観に行けなかった。だってそばだからいつでも行けると思っていて、結局行かずに6年経ってしまったんだもの! これはすべて消費に関わる例ではあったが、すべてが「たった今」しか有効(available)でないと思っている方が、活き活きと生活できることは間違いなく、また、すべての人生に降りかかってくる「状況」にそのとき限りの想いで面と向かうことが出来るわけである。

たとえば映画に話を戻せば、通常、料金を払って決まった時間までに映画館に入り、途中で「行きたく」なったら困るので、開演前にトイレで用も済ましておいて万全の体勢で鑑賞に臨むだろう。映画が始まったら、一瞬の場面も一言のセリフも逃さない集中でもって観るだろう。映画は反復上映されることの可能な複製品の再生だが、真剣勝負で対峙を余儀なくされる意味で、いまだ極めて「劇的」な要素を保っている。その点では「生もの」が基本だったテレビ番組もそうした部分があっただろう。ただ、お手軽だったり重要度が低かったりで、その分、鑑賞者の集中度も下がったかも知れない。ビデオレンタルとかなると、お金を払った上に賃貸期間がだいたい1週間とか決まっているので、少なくともその期限のどこかで無理をしてでも時間を作って懸命に見ようとするだろう。

また、どんな洋書でも手に入れられる!と最初は嬉々としてamazon.comのサービスを利用して本を買いまくったものだったが、「何でも手に入れられる」は、「いつでも買える」を意味していたのであって、結局「いつまで経っても買わない」になってしまったのである。そうこうしているうちに、amazonのサービス自体が変わってしまい昨今では「総合商社」のようになっており、「何でも手にはいる」が「すべてに興味がない」になってしまった。これは日本の「デパート産業の斜陽」みたいな事が、あっという間にcyber businessで起こったようなものかも知れない。(おいおい、まだ黒字も出してないんだろ?)もちろんこれは単なる私の杞憂であると思いたい。

必要なものを必要なときだけ手に入れるという、節約の基本中の基本を守らないと、「手に入れられる」という満足感をインスタントに手に入れて(確かめて)、それで終わってしまうのである。

こうした自らの経験から憶測できることは、不便や制限がわれわれを、その対象に対して、より真剣に向かわせているわけであって、いわば「一期一会のモノとの出会い」がわれわれを集中させ、ひいては満足感を得させ、仕合わせにするのだ、と言って良いような気がする。

すべてのモノに対してランダムアクセス可能なサービスやインフラというのは、凡そわれわれが大なり小なり持っているハンター(現代風に言えば“消費者”)としての性向に応えるモノではなく、却ってわれわれ自身を無気力にしてしまうのはかなり確実さでもって予想できる。「情報が溢れかえると無気力になる」ではなくて、「便利が過ぎると無気力になる」が正しい。そうした高速度大容量の情報社会がより当たり前になっても、仕合わせのために「敢えてそれを選択しない」という意志をわれわれは保ち続けられるのだろうか?

何でも手に入るという状態が当たり前になった世の中とは、どんなものだろう。

便利になって体を動かさなくなった現代人が、運動不足を解消するためにフィットネス・ジムに通い、敢えて汗を流すためにお金と時間を使うというのは、現代人特有の「倒錯した状況」であるが、まさにそれが精神活動の面でも進行する。便利を味わい尽くしあらゆる「面倒」から人間が解放される一方で、解答が難しいゲームなどの他人のお膳立てした知的障害を解くのにもっともっと夢中になるのである。もちろん、そのようなことは既にファミコンやPCソフトなどゲームの世界で成立しつつあることである。それが、これからは精神の健康を維持するために「困難」→「解決」→「歓喜」というバーチュアルな浪漫主義(romanticism)が提唱され、そのためのサービス(虚業)が全盛となるのであるっ!

(高校の数学の問題集でも開こうかな?)


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