衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

自由と個性と
February 7, 2000
 
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自由が「不自由でないこと」でしかなく、個性が「平均的でないこと」でしかないとすれば、「自由」の獲得や「個性」の追求はそうでない厳しい条件下でしか行い得ないと云うのはひとつの真である。

「子供に自由をやる」ことと、「子供が自由になる」ことは違う。誤解を恐れずに云えば、子供に「自由」をやってしまえば、その子供は二度と自由になれない。子供に社会や家族なりが「個性」を許してしまえば、その子供はもはや個性的にはなれない。自由や個性がこの様に「不自由」や「平均」からの相対的関連の中でしか理論的に成り立たないのであるなら、親や社会はそれを「親のエゴ」であるとか「社会の利便」とかを一方的に押しつけることの方が、実は子供達を真の意味で羽ばたかせることになるのだが、それにはなかなか気が付かれることがない。もちろん、どこまでそうしたエゴや社会的要請を押しつけるのか、という限度というものはあろう。しかし、所詮、親が親のエゴを子供に押しつけることもできず、社会が社会の都合を押しつけることもできず、子供の利便や快適さを中心に生活をしてしまえば、その子供は自分に必要な何かを勝ち取るという機会さえ失ってしまうのである。

思えば、自分の高校生活ほど、不条理な状況はなかったと思う。そもそもは、自由の校風で知られる都立高校の受験を失敗したために、仕方なく通 うことになったのであるが、当時の都内のほとんどの都立高校において、「自由な高校生活」というものがすでに当たり前であったあの時代に、あのような不自由と規律を校風にしていたというのは、時代錯誤としか思えないのであるが、ああいった、某私立高校という限定的な狭い社会が全てであった当時の生徒にとっては、それを生き残ることだけで精一杯の状況であった。

暴力による規律を教育の主たる方法であると考えていたとしか思えない、ごく一握りの教師達が中心になって高校全体の経営方針さえ牛耳られていた当時の某私立高校は、校門をくぐればそこは完全なファシズムが支配する独裁国家であった。鞭を手にして校内を肩で風を切って歩く教師達。髪の長さや髪型が、気に入らない、目つきが悪い、態度が悪い、などのために、「検問」に引っかかれば、その場で鞄の中身がさらけ出され、少しでも勉学に関係のないものが発見されると、直ちに体罰。物品は当然没収。加えて頭髪「丸刈り」の宣告。ほとんど毎日のように行われる試験の得点が悪ければ、クラスでさらし者になって体罰。科目と関係のない担任の先生にまで、成績によっては殴られると言う毎日。どのように勉強をすればいいのかを教わったことはないし、体系だった授業を行わない先生による鞭による脅しの教育。

断るまでもなく、こうした不自由な学園生活を強いる学校の教育方針が正しかったと主張しようとしているのでもそれを讃えようとしているのでもない。不自由世界が場合によっては自由を見出そうとする努力に駆り立てうると云う可能性を示唆したいだけである。少なくとも、私にとってその不自由世界で「自由」を感じ取れるひとときとは「形而上の諸問題」についておもいを巡らすことであった。また、何が「求めうるものか」を常に考え続ける類い希な機会を、あの「自由」な世間の中で得ることが出来たのは貴重だった、と今は思うことができる。

また、社会の構成員たる人々が皆、絶対に個性的でなければならないとすれば、どのような社会になるのであろう。個性的であるということは、平均的であることの裏返しである以上、「ある個性」の大前提として大多数の没個性的な(あるいは平均的な)構成員を必要とし、全員が個性的でなければならない、と求めること自体にパラドックスが生じる。

それでは、個性的であることがとりわけ奨励されない状況があるとして、その組織の構成員が実際問題として「本当に平均的」であるのか、と考えると、それも否だろう。奨励されなくとも、実はすべての個人がすでに個性的であるはずなのだ。そうなると、個性というものにつきものの課題は、それを求められる生徒や若者の中に見出されるのではなく、それを求める上の世代の中にあるはずなのだ。つまり、個性的であることを若い世代に求める前に、個性を若い世代の中に見出せるか、見出せたとしてその個性をどう扱うか、というあくまでも上の世代の問題なのかもしれないのだ。

このように、自由や個性というのは観念上ほとんどの人から讃えられるものでありながら、現実の世界においては逆説を多く含む概念である。

若い世代に自由を経験してもらいたいのなら、かれらに徹底的に不自由な思いをさせ、自由の意味を考え自由の獲得に邁進してもらう、という現実的な方策があるわけだが、戦法的には親の世代にはかなりの注意が必要とされるだろう。

つまり、何を子供の世代に獲得してもらいたいか、ということと、実際に子供たちに与える状況とは180度違うものでなければならないからだ。なにを子供たちに獲得してもらいたいか、という教育目標を心の中では明確に持ちつつ、その反対を戦略として日常で展開しなければならない。従って「子供に自由を、個性を尊重する教育を」と公共の場で声を大にして叫んではならない。いかに、それが親たちにとって本音が求めるものと矛盾していても、本音を若い世代に聞かれては拙いのである。ここは心を鬼にして親は悪い大人にならなければならない。

「個性や自由など冗談じゃない。おまえらにそんなものはハンドル出来ない。まだ一人前でないおまえらにそんなものは与えられないね」と悪い大人を演じきらなければならない。そんな中で、自由を獲得し、個性をより発揮して生き残る子供が現れるからである。それを期待して親は心を鬼にして子供と建前の部分のみで接する覚悟を決めなければならないのである。 われわれにそこまで出来るだろうか? そのような「意図としての本音」と「戦略としての建前」を現代の学校や文部省や親たちが上手に使い分ける、などと言うことがあり得るとも思えない。すべては、「オープンに公の場でディスカスされる」のがよいことである、と皆が信じているからだ。ここでは、言葉にされるべきでない頑固親父の信念が介在する余地はない。

とくに、子供と“同等の関係”を良いものとし、同じゲームをして遊でるようではだめだろうね。


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