衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

(即興された)「コンポジション」
December 6, 2000

自分のつくったものを他人がどれだけ分かるだろうか、といつも自問する。ひとの言うことが分かったと言うことでどれだけ他者を不適切に見切ってしまうのかの危険も承知のつもりだ。分からなかったと言えば、自分の心はそこまで狭隘なのかと自噴の念がもたげる。

分かっても分からなくても相手を過小に捉えるか自分を過小に評価するかのどちらかにしかならないのであれば、一体どのようにして自分の気持ちを相手に伝えることができよう? そんなとき対面していれば黙ってにっこりと頷くことができるだろうに。

だが、これだけはこの拙文を通じて彼に伝えておきたい。私は近藤さんの「00.12.6 読書について」を読ませていただいて、心が動かされたと。そしてそれはひとのあからさまな信条吐露に対して第三者であるはずの自分が「分かった」と実感できるためにこそ体験する感動だ。山麓に布陣を敷けば、「頂上に陣を張るべきだったかも」と思い、いやむしろ「頂上に布陣を敷くことが有利だった」ことを実感する。でも頂上に行けばきっとそれはそれで後悔するのだ。自分で見つけた方法を自分で否定する。否定した自分をまた否定する。そして本当に自分を否定しているのか、さらに自問する。と、この繰り返しだ。

読書は近藤さんが言うように、私にとっても、ある種の救いであり、またそれ以上のものだ。読書にかまけることを「実体験でない」ことを理由に否定する人もいるようだが、読書には読書でしか得られない「体験」があり、それが出来る人には「特権」がある。もちろん、書物は選ばなければならないが、それは得られようはずもなかった隔てられた他人との時間や空間の共有という「追」体験を可能にし、また時間や空間を越える思想の地下水脈を垣間見させてくれ、また自分が「ひとり」でないことを強烈に教えてくれる。そしてそのためには、ありきたりな言い方だが、頭で読むのでなく心で行間を読む、と言うようなことが絶対に不可欠になる。そこには現実の人との付き合いをどのようにするかということと同じくらいの心砕きが求められ、また「通わせる何か」が必要となる。そして眼前にはいない著者との会話が始まることが頻繁に起こる。著者との会話は私の場合「書く」ことで行われる。読書をしている、と実感できるときは私は同時に多くの言葉を書き、また人と話す。自分を書かせるところまで至らせない著作物は、思い出されることも少ない。

音楽がすべての表現手段に対してアドバンテージを持っている、と思いたい。しかしそれは私の勝手な思いこみであるし、ましてやそれを証明することなどできない。信条のそれらしい説明は屁理屈に過ぎまい。表現することは何かに到達しようとすることであり、到達し、伝達することが行為の目的であるならば、そのための方法は音楽でなくても良い。音楽が絶対であると思うのは音楽家の勝手である。いやむしろ「ある種の伝達」に、音楽は「最もふさわしからぬもの」である可能性さえあると私は言いたい。音楽が依然としてきわめて特殊かつパワフルなものであることを認めた上で、しかし、道具としての音楽には音楽の得意とする分野とそうでない分野があることも思い知らねばならないだろう。これらはすべて自分に向けて言っているのだ。

翻って、言葉には言葉の得意とする分野がある。そして書物こそ口頭で伝えきれない一貫した思想の伝達を可能とする器が備わっている。一方的であることはまぬかれないが、そのまさに一方的だが一貫して畳みかけることを可能にするのが「著述」の行為である。虚実を問わず、一つの世界の構築を可能にする。そしてありきたりな循環論法だが、私はそうした世界を持ったコンポジションこそを「書物」と呼ぶ。

さて、コンポジション(composition)という言葉だが、これは音楽の世界では作曲をも意味する言葉であるのは言うまでもない。記述の世界では自然とそれは作文を意味する。構成・組織することの意であるコンポジションは、音楽の世界でも著述の世界でも構築への闘争であり、きままな可能性からの決別である。構成するには要らぬものを決定し廃しなければならない。捨てることの難しさ。選ぶことの難しさ。ありたい自分であることの難しさ。それに向き合うことから逃げることが当面自分を著述という虚々実々のコンポジションの方に向かわせていると言えば、それは正直の度がすぎるのであろうか。

このいつまでもまとまらぬ未完成の「コンポジション」を読んで近藤さんは黙ってにっこりと頷いてくれるだろうか?


© 2000 Archivelago