衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

国語力は高められるか?
January 21-22, 2000
 
English version

文章の持っている正確さやその文章のコミュニケーション能力の精度を確かめたかったら、ほかの言語に翻訳してみるとよい。「正確な翻訳」などというものはもとよりあり得ないが、誤解なくほかの言語に置き換えてみようとする努力は、自分が読んだり書いたりしている文章を構成する要素を読み逃してしまうことなく、自分の中で一字一句を一旦理解し、それらを自分なりに再解釈する事を余儀なくさせるので、ある文章を理解せずに曖昧にしておいて次に進むということができなくなる。これは、他人の文章の編集や自己の文章の推敲に大変役に立つ方法のひとつだと思う。

自分にとって、英語という文化的触媒を通して、自己の日本語の文章を見直しをする意味はつねに大きかった。それに自分のこの文章は本当にこれで良いのだろうか、という再確認は、(仕事柄もあるが)依然として日常的な作業のひとつである。

ただ、ここで予期できるひとつの意見がある。「日本語には日本語にしかない様式や美しさがあるので、そんなものは翻訳不可能だ」「翻訳不可能だから、他国語に置き換えることで日本語の文章の再確認は必ずしもできないはずだ」というものである。「だから、その日本語に特有な曖昧さこそ、尊重され保存されなければならない『文化』なんだ」ということにでもなるのだろう。

こうした主張はそれ自体でひとつの有効性を持っていると思う。日本語の詩や随想が英語になるか、と考えるとそれは難しいと言わざるをえない(しかし英語表現のすべてを日本語に翻訳出来るかというとそれも難しいという、「逆も真なり」なのであるが)。そうした翻訳不能の要素が日本の文学の一部に存在していることを認めるにやぶさかではない。が、日本語にありがちな曖昧さこそが、日本文学の「受け入れるべき特徴であり、良さである」という主張には容易に与することが出来ない。日本語のではなく、日本文学の「特徴」ではある可能性はあると思うが、それを「良さである」と思うかどうかはまた別 の問題だ。翻訳不可能なことが、無条件的に良い、すなわちそれこそがまさに「文化」である、という「自己文化の弁護」に走ることは容易であるが、それは後ろ向きの考え方だとも言える。本当にそれは、「文化」的なだけの問題なのか。

日本人の学術的な論文や企業のプレゼン・シートなどを翻訳していて、それらがその分野の専門家でありながら、非常に稚拙で非論理的に見えることが、残念ながらしばしばある。これらは、詩や日本人の得意な「随想」とはちがい、他人に自己の主張のポイントを理解して貰う意図で作られたはずの文章である。こうした、論点を伝えるためのプレゼン・シートなどのコミュニケーションツールをまとめ上げるのが不得意なのは、日本語が曖昧なのではなく、それを扱う日本人が論点を明確にするというトレーニングを全くと言っていいほど受けていないからなのではないか、と思わせるほどである。こうなると、日本語を曖昧なもので好しとしてきた日本語教育(あるいはそれを許してきた日本人の心理)にあるとさえ思えてくる。そして、率先して論理的な日本語を構築する力、すなわち論理的考察力を育ててこなかった今日の日本語教育そのものが、論理的一貫性や、相手に自分の考えを伝えるコミュニケーション能力を「必要とあらば発揮できる」と言うような人間を作ってこられなかったのだ。これは、日本語の美しさゆえに、ではなくて日本人の弱さゆえに、ではなかったのか?

解釈に幅を持つ曖昧な表現というものは、日本語に限らずそれが何語であっても、ひとびとの想像をかき立てるものであるに違いない。また、そうした解釈の幅が「文学」的に筆者から意図されたものであるならば、それは表現上の成功であるかもしれない。そして、これは何語だから、という問題でなく、すべての言語で選択可能な表現上のテクニックなのである。詩や、象徴文学、黙示録文書などといったものは、そうした曖昧さこそを様式にまで昇華したものかもしれない(最も我々が日本語訳で目にすることができる「ヨハネの黙示録」が、原語で曖昧なものであったかどうか、知る由もないが)。しかし、契約をどのように履行するか、というようなビジネス上の決定が必要な場面 でさえ、そのような「文学的表現」で仕事をするのが、日本人サラリーマンの性向である。

どうしてそんなにはっきり、白黒付けようとするの? どうして、君が場を仕切ろうとするの? それになんで君にそんな断定が出来るの? なんでみんなでハナシ合わないの? と少しでもはっきりしたモノの言い方をするだけで、日本のビジネス状況では浮いてしまう。「どうして私がそういうことを主張できるのか」ではなく、たとえば、私の論点の間違いを指摘して貰いたいのに、である。実は誰かが何かを提示して初めて議論が始まり、それぞれの争点が明確になり、目的達成のために何が近道なのかを見極めることにつながる筈なのにかかわらず。

英語と日本語の文化的な違いということを前提にいろいろなことを推論してみることはできる。たとえば、「英語の話者は、相手が何も知らないことを前提で話をする傾向にあり、日本人は自分が何を意図しているかを相手が想像できるはずだという前提で話をする」みたいな仮説だ。たしかに、すべてを懇切説明することが、日本では相手の推論の能力や「経験」を過小評価していると取られかねず、まず確実に相手に対して「失礼」に当たる。すなわち、相手の「包括力」(comprehension) を尊重し、相手側に推論をさせるような間接的かつ暗喩的な表現を採れば、だいたいその場は旨く収まる(ただし、会議が終わっても何も決定されていない、という種類のミーティングになるのだが)。このような経験から照らしても、案外文化的な違いというものはあるかもしれない。ただし、これは、ひとつの洞察としては興味深い、とこの場ではしておこう(自画自賛)。

ただし、ある言語とその言語を話す人間のメンタリティが不可分なものであり、「言葉こそがその人間そのものなのだ、どうにもならないのだ」という理由で、言語のトレーニングができないものと納得してしまえば、解決の道を閉ざすことになる。人間は言葉でものを考えるので、その能力が不十分である言うことは、考える力が十分でない、とさえ言える。私は、実はそういうことなのだと思う(イヤ、これはとんでもない意見だよ、マッタク)。

ところで、文系、理系とかいう日本独特の学問分野の範疇分け(これも昔ならいざ知らず、現代の英語への翻訳が難しい概念)自体、国語が数学や理科と違う、すなわち、サイエンスでない(から仕方がない)という諦めを我々に植え付けている原因になっていると思う。ある程度「解釈」や「予想」の必要があるという意味で、社会科(経済や歴史)は、従来の純粋自然科学とは性格を異にしているとは言え、少なくとも学問、あるいはそれに準ずるものとしてその「系」が成立しようとするために、サイエンスに昇華する努力は、確かに払われてきた(英語では、social scienceと呼ぶだろう)。少なくとも、現在これらsocial scienceは人間を扱うサイエンスたろうとしているのだ。すべての学問は、それが学問的な厳密さを身につけようとした時点で、実はすべて日本人のジャンル分けするところの「理系」すなわち「サイエンス、エンジニアリング」であったのだ。こうしたことを、遅蒔きながら気がつき始めているわれわれ日本人であるが、いまこそ、国語こそ、すくなくとも「エンジニアリング」に属するものであるということを悟るべきなのである。「文系」などと言う曖昧な学問分野は存在しないのだ。

国内の学問の範疇分けの現状に見られるように、それが示している内容とは、国語を「美術」や「音楽」などとおなじ、「現在個人主義によって価値を支えられている曖昧でパーソナルな表現手段」のひとつとして捉える向きが強い。すなわち、科学や技術(technology)としての日本語ではない。たしかに日本語を「科学化する」のは容易でないだろう。しかし飽くまでも学問としての言語は「人を説得する技術」であるべきで、現今のように「人の気持ちを推察する性向」を身につけるだけでなく、「人の論点を正確に読みとる技術」として、扱う必要があるのだ。

話がやや大風呂敷になったが、われわれがこのように国語を所詮個人のテイストに資する「近・現代アート」と同レベルのものとして捉えてしまう以上、その中からコミュニケーションのための純粋な技術力が生まれ出てくるはずがない。学校に於ける国語の時間とは、日本語を使った「芸術作品」の鑑賞会・解釈大会にほかならないからである。我々が技術としての国語を考えるとき、曖昧に書かれた日本語の文章を「どのように読み解くのか」という読み手の方の推察力ではなく、我々が書き手に回ったとき、どのようにして相手に意志を伝えるのか、という技術こそを身に付けなければならないということは明らかなのである。そして意志を伝える側の技術がある程度向上すれば、書かれたものをどう読み解くかの「操作された解釈大会」では、もはやない「国語の時間」というものが可能になるかもしれない。そして、それは「国語」でさえなく、即物的に「日本語」という名の授業となっているはずだ。

しかしながら、それが教育なり、集団の努力による実効的な改善を図る以前に、私のこの拙文の論点を広範な日本人に理解してもらうこと自体が実は容易でない。なぜなら、「文学者」から文部省の役人、そして総理大臣に至るまで、ほぼ百パーセントに近い日本人が、ほかならぬ 現状の国語教育を当たり前のものとして受けてきて、そうした「国語力」の上で「我々にとって何が必要か」という議論が行わなければならないからである。

そして、多くの日本人は知ってか知らずか、言葉の上で論点を曖昧にして明らかにしないからこそ、さまざまな責任から逃れることが可能となっている。なぜなら、こうした態度が、戦前からあるいは悠久の昔から、この「卑怯者の天国」における生き残りの鉄則として厳然と機能しているからである。


© 2000 Archivelago