衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

精神的安寧を「破壊」する宗教的世界観
June 30 - July 4, 2000
 
English version
(Revised May 11, 2001)

唐突だが、真の宗教的世界観は日常的意識の範囲での精神的安寧を保証するどころか、むしろそれを破壊し、「本当の絶望の淵」にわれわれを立たせるものである。それに対し、宗教的考察を通過する必要のなかった人ほど、精神的安寧はより確実である。一方「真に力のある宗教」は、われわれ識者の一部を非日常的状態に釘付けにしようとする。そしてさらに言うと、宗教に真理を見出そうと日常的な努力をする者以上に、非常な高みまで積み上げられた自然科学なり社会科学なりの知識を保有する者の方が、そうした宗教的世界観を体感するチャンスをより多く持っている、とさえ言いうるのである。そしてまた、実は宗教がその世界観をもたらすのでなく、その体感者が宗教を「解った」と叫ぶのであり、宗教が(あるいは宗教的世界観が)その人の中に芽生えるのである。そしてその体験そのものはその本人の実感に依るほかなく、証明はできない(誰が自分の感じている痛みを他者に証明できよう)。そればかりか、その非日常的経験に深く沈潜すると、日常での生活が不可能になるほどのものであって、それは「絶望の淵」と表現できるような種類の体験なのである。それがいわば科学的な考え方を遵奉していたような人に起こるからこそ、苦悩はひとしおなのである。

さて、「宗教的世界観」とは何かと問うことは出来るが、私が自発的に言いだした言葉では少なくともない。しかし「宗教的世界観」が「宗教体験」自体を意味しているとするか、「宗教体験」によって構築される世界観であるとするか、議論の余地のあるところではあるものの、それがどういう人にもたらされるかを考えることは可能だ。

「宗教体験」とは、それを体験しようと日夜「自然」主義的なアプローチ(あらゆる修行の類)に打ち込んで、脳を空っぽにしている人達よりも、ことが起きて失うものが多い「知的階級」の人ほど劇的に訪れるというのが真相かもしれない。そしてこの「劇的さ」こそが「宗教体験」のエッセンスなのである。緩慢に到達する「宗教体験」などというものは、ない。

積み上げた世界観の石垣が高ければ高いほどそれを失う落差は大きい。宗教体験とは、自分がよじ登った高みからの転落であり、あるいは転落せずとも、その高さから高みを実感する体験なのである。それはまた、脳に築き上げる2つの仮想の塔の高さのギャップから生じるものである。そして、このギャップの実感こそが驚愕と呼ぶに相応しいものである。

2つの塔の高さがバランスのとれた状態に人間はなく、もっとも知的なタイプから遠い人物こそ、築き上げたその高さはともかくとして、双方の高さのバランスは均衡に近い。それはそのひとが、われわれ文明人が積み上げがちな塔の一方をいたずらに発展させない種類の幸福な人間であるからだ。ただ、彼は決して「宗教体験」をしないであろう(あるいは絶え間ない宗教体験の中にそれと知らずにいるのかもしれない)。2つの塔を同時に高みに持っていくのは容易なことではない。われわれに出来るのは、われわれが築き上げがちな知性の塔の高さを可能な限りの「高さの限界」まで持っていくことであり、それの引き上げる影響力によって、もう一方の塔の高さが幾分持ち上がることでしかない。ところが、その「知性の塔」の高さを一瞬のうちに失うような自体が起こると、突然、その塔のかつての高さを眺められる位置まであなたは降りてきているのかもしれず、また、もう一方の塔から今まで築き上げた塔の高さに圧倒されながらそれを見上げるかもしれない。「知性の塔」の高さは一瞬のうちに瓦解できるが、一方の塔はずっと緩慢にしか変化できないから、その瓦解の途中で一瞬の間、高さの均衡が生じるのである。そして、これこそが爆発的な物事の包括的把握(realization)である。

であるから、「宗教体験」をしたいなら、宗教を追い求めてはいけない。全く逆に、知的努力に邁進し打ち込まなければならない。そして、その結果を知らずに科学的なアプローチにのみ日夜コミットする者こそが、望むと望まざるとに関わらず、より「宗教的」な体験の近くにいるということなのである。ただ、自ら築き上げたその高みを「客観」的に実感する千載一遇の機会が訪れるかどうかは、本人にも、そしてだれにも解らない。

ここには、神とはまったく関わりのない意味での宗教的世界観なり「宗教体験」がある。宗教画、宗教建築物、教示文、伝統的動作、などの意図や意味を理解するという体験は、神聖なる体験であるが神とは(直接)関係がない---神を恋い求める人は、そんな体験を「神が私の“琴線”に触れた」とか表現するのかもしれないが。むしろ自分自身という存在の持っている善悪両側にのびている潜在力の爆発的な発見とに宗教は関係があるのである。仏教に関して言うと、ホトケやご先祖さまという名の「神」を信じることを求めるものではない、というのはちょっと知識のある人ならば知っているだろう。それに仏教が依然として「宗教」のジャンルに属するものである理由も、それはそれで存在するのである。しかしそのことは本件とは関係がない。

以上のように物事には恒にパラドックスが付き物である。

タイトルが示すように、「宗教体験」は、日常的意識の範囲で精神的安寧を破壊する。しかし、破壊するだけで終わるのか? 答は、そこで圧倒され(文字通り)終わる人もいるかもしれないが、そこから、新たな人生を歩み始められる人もごく一部にはいる、というのが正しい。そして、この圧倒的体験自体は「救済」とも関係がない。いわば、宗教とは、そういう極一部の人にこそ保存されていたかもしれない、ある世界への入り口なのである。


© 2000 Archivelago