衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

履きたがえられた自由平等博愛

July 18 (June 27), 2002
 
English version

三つのボタンと三つのボタン穴がある。しかしボタンがひとつずつずれてはめられている。

この“自由主義”経済のまさに混沌と言っていい野放図で暴力的な膨張。拡がってゆく貧富の格差。こうした世界のあり方のどこに「自由・平等・博愛」の反映があるのか...。世界が一握りの富める者によって動かされているという歴史観が喧伝されて久しいが、それは世界の在り方をきわめて単純化した捉え方で、一面的に正しい観点でありながらも、いわゆる地下結社による世界支配が実在するという極端な陰謀史観に陥れば、それは「エリート」への安直で危険な逆差別に他ならない。それは確かに凡庸な自分の無力さを諦めるのに便利な世界観ではあろうが。

そもそも、自由の理念の中には自由で野放図な経済活動のことは想定されていなかった。平等の理念の中には政策の結果としての「絶対平等な生活」はもとより保証されておらず、博愛の理念が個人の尊厳に根ざした表現・創作活動と必ずしも一致するとは限らなかった。それらはすべて理念の履き違いであり、まさにひとつボタンを掛けたがえた状態に過ぎない。これは私の単なる想像力の賜物ではない。欧州の伝統に根ざした社会哲学の立派な理念なのである。

履きたがえられた3つの理念(現状)
自由
平等
博愛
経済活動
社会生活
表現活動

故ミヒャエル・エンデへのインタービューによれば、これら理想的キャッチフレーズ、特にフリーメイソンやフランス革命当時のスローガンとして知られる(そして悪名高い)三つの社会理念のスローガンとは、三つの全く異なる分野への「誰にでも解る当たりまえの理想」の言語化であったらしい。

<自由>はまさに表現や創作の自由であり、その根本は精神(魂)生活の自由を希求するものである。それに対し、<平等>は、社会に於ける均等でより公平な機会を目指すの平等である。そして、<博愛>は相互扶助を約束するための経済活動を通じた実践的愛であった。表現の自由、法の平等、博愛を基礎とする経済活動。これらを意味する全く区別して捉えられなければならない、3つの最低限必要な理想的社会の在り方の指針は、現在、経済活動の自由、平等な実社会生活、富める者の効果的な弱者支配のための慈善事業(philanthropy)にはき違えられている。どれも実効的な支配者の都合により当初の理念は、拡大解釈され、みごとに歪められているのである。

そもそもの3つの理念
自由
平等
博愛
精神
経済

すなわち、その理念自体が最初から間違っていた、ということでは断じてない。ましてやフリーメイソンが、見えざる手によって世界征服をするためのスローガンとして開発したものではない(笑わせるな)。ことによると、フリーメイソンの歴史より古い源泉を持つ言葉である可能性もある。それが現在どのようにわれわれの社会に伝えられてきたものであろうと、<自由・平等・博愛>の根本的理念そのものが間違いであったなどと考えるのは、途方もないお門違いなのである。

こうした、三権分立ならぬ、“三理念の分立”原則は、『エンデの遺言』(NHK出版)に詳しい。独立独歩、自助自決の理想、すなわち国家からの自立の追求を考えるに、この<自由・平等・博愛>とは、まさに気持ちの通い合うサイズの小さなコミュニティにおける社会理念そのものだ。極端を言えば、すでに存在する国家(大国)の枠組みの中では、残念ながらもうすでに実現する見込みのない理念である。

経済活動は「博愛」の原則を第一義としなければ、互いに奪い合い殺し合うことになるのは明らかである。だからこそ、この原則こそが明記されなければならなかった。もちろん、それを現実のものにするためには、法の平等が大原則であり、そうした最低限の法の平等から互いに鍛え合い競い合って高まっていく前提が保証される。もちろんそれによって全てのひとの生活がまったく均一になることはもとより目指していないし、それを極端に嫌うと多様な人間の在り方の否定となる。そもそも肉体的に平等に生まれてこなかったわれわれが、成果としての「同質(平等)の生活」を強制されて良いはずがない。われわれの生きる動機はより質の高い生活なのであり、それは他人の生活の質を損なわない範囲では各自追求されてしかるべきことなのである。

しかし、そこで絶対に保証され、こうした法の平等や博愛の経済を支えるのは、真に個人が尊重される自由の精神である。われわれはこれを犯すことは出来ない。こうした精神の自由の自覚が前提となり、残りの2つが実現可能なのである。


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