衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

すべての論理(論理性/論法)への前書き

November 15, 1999
(July 18, 2000 改訂、Feb. 5, 2003 追加改訂)
 
English version

われわれは、この拙論においても、すべての例に漏れず、可能な限りその論理性の面で「厳密」たろうと努めた。その厳密たろうとするいわば儚い夢のごとき努力が、この拙論の表面的な見栄えを不必要なまでに複雑なものにしているのだ、といういうことも心得ているつもりである。が、いかに“厳密な言語”(もちろん、そういうものがあると仮定しての話だが)を以てしても、それはある条件付きの世界、において有効であるに他ならず、その前提的な条件の外部においては、単にそれがまったく意味をなさないばかりでなく、誤りの論理でしかないという事実に、つねに真摯に対峙しなくてはならなかった。さらに付け加えれば、あらゆる「完璧性」を具えたかに見える論法も、<世界のあるがままの姿>を、多く見積もって半分しか(「しか」ではなく、「も」であるという言い方もできるのだが)映し出さないものであり、世界の半分の世界において、<限定的に正しい>ということが言えるだけなのであった。しかし、なぜ<半分>なのか? それこそ、論理的に証すことがむずかしい事柄だ。だがそれをあえて試みてみるのもいいかもしれない。

たとえば、ここで金言(格言・ことわざ・言業)なるものを取り上げてみるとする。とりわけ上手に言い表された金言のごときは、その表面的な正しさの印象によって、いかにも疑いなさそうに響いても、大概の場合、まったくそれに対立する別の金言の存在がある。「芸は身を滅ぼす」と言える一方で、「芸は身を助く」という金言が存在している様にである。実生活の中では、こうした相反する言葉をその場の都合で、知ってか知らずか、上手に使い分けている。勿論このようなことを思い出すまでもなく、実は、あらゆる論理や思想は、その対象となるもの性格や実態の、多く見積もって半分のことしか問題にできないのである。われわれがこうしたことから知ることができるのは、二つのまったく対立しあう世界観(あるいは思想)の一方を、便宜的に選び出し、それを<当面の前提>すなわち「便宜」として、ある種のことを綿密に論ずることができるに過ぎないということなのだ。

だが、さらに言えば、ここに挙げた二つの金言の双方を語りつくすことによってすらも、「芸」全般を語り尽くしたことには、まったくならない。この相矛盾するふたつの金言は、「芸」というものの「身(人間の身体)」との関係、という限定された局面のなかで、我々には「二つの可能な結論」が与えられている、ということが分かるのみなのである。

この拙論の設定している課題に目を移す。簡単にまとめれば、この論*は「音楽の意義」を語りましょう、というような極めて漠としたくくりの話のひとつである。もっと詳細に説明すると、音楽を演奏あるいは創作する側の<個人的意図>と個人的意図をまったく度外視した集合的な<歴史的意義(意図)>というふたつの視座を想定することができる、ということが言いたいのである。そして、たとえば、「音楽の意義」を語る場合、上記の<個人的意図>を度外視して、<歴史的意義(意図)>のみを語って好し、としてしまうのは、上記の二つの可能な前提のうち、あきらかに広範な「音楽世界」の半分しか語っていないに等しいということである。当たり前のことであるが、ある意味でどんな論理(理論)や思想も、狭い前提の中で正しいかも知れないと言えるだけであり、すべからく「片手落ちである」ということなのである。

* 西洋史と西洋音楽史の呼応性(あるいは、伝統と個人主義の拮抗について)

しかし一方で、我々は、とりわけ<現代>という時代に於いて、創作家が問題にする<個人(一創作家)の意図>が、ことのほか強調され重要視されるべきだ、という今日の時代的傾向を視野に入れたとしても、その個人的意図を考察するだけで事足りると考えることは、まったくできない。要すれば、拙論は音楽という漠として広大な地平を持つ世界の中を、<個人>と<歴史的社会>という対立する観念によって便宜的にくくり、しかもその一方に光を当てているにすぎないのである。

繰り返すように、語られる世界を如何に厳密に設定しても、全体のごく一面的な切り口の中の、さらに多く見積もって、その「採りうる可能性の半分」について語ったに過ぎないのである。

ここで、しかし、謎めいた言い方になるのを承知で言えば、相反するふたつの世界の一方を精緻に描く、という努力が、その論理的思惟の最終局面において、残りの一方の世界をまるで反転した陰画(ネガ)のように浮かび上がらせるかもしれない、ということがある。それはあたかも小宇宙を描き出すと、それを内包する大宇宙がどのような様子をしているのか、また逆に大宇宙を描き出すと、それに内包される不可視の小宇宙がどのような様子をしているのか、を「想像させる」フラクタルの宇宙像にも似ている。(ただ、こうした純粋に思弁的な憶測をめぐらすことは、自然科学で証明しうる範囲を超えて、「汎神論」の哲学に陥る可能性があることをわきまえてやればいいのである。)

さらには、次に述べることは、与えられたある課題に対する個人にとっての態度表明になるかもしれない。すなわち、われわれは、つねに、どのような課題においても、設定し得るふたつの仮定のうち、一方の世界へと、特定的な態度を決めるよう、あるいは特定の立場を採るように、迫られている。しかしこの前書きで述べるように考えることで、<便宜性>を超えた「普遍的・定常的」な態度をとらねばならない、という現実生活における困難さに立ち向かうためのヒントが得られるのではないか、と加えて希望しておきたいのである。

ニュートンは、『プリンキピア』(『自然哲学の数学的諸原理』)のなかで、「それまで例のなかったような数学的厳密さを用いて、運動する物体についての知識をすべて新しく定式化し直し、空間における諸惑星の運動の問題について解説し、太陽の地球に働きかける力が実は磁気ではなく、引力に他ならないことを教示し、宇宙に於いて作用しているこの引力を、地球が月に対して、また地球の表面上に位置するありとあらゆる物体に対して及ぼしている引力と同一のものである」とした。そして彼は、「天空の現象(惑星の運動)と地上の現象(物体の落下)という二つの現象を万有引力という同一の法則のもとにおくことによって」物理学を統合・普遍化した。しかし、ニュートンの理論の正しさ(論理性)は、アインシュタインの相対性理論が世間に受け入れられるまでの約300年間だけであった(もちろん、限定的な条件の範囲内では現在も正しいが)。アインシュタインは、あらゆる現象の場を四次元という(我々にとり不可知の)場の上にのっかっている宇宙のモデルを、彼の理論の中で想定し、万有引力の「原因」を説明したが、その時からニュートンの理論の持った正しさが、我々が知る日常の地上世界の中での話であり、たとえば非日常の微細なレベル、たとえば素粒子レベルでは、万有引力の影響がない、あるいは、万有引力による論理があてはまらない、ということが解ってきたりしているわけである。

つまり、ニュートンの万有引力理論のような正しささえも、ある制限的な条件の範囲内でのみ「正しかった」に過ぎないのであり、非ニュートン的物理学というものが、別の誰かによって把握されれば、またそうした別の「くくり」の中でその世界を語り尽くすことができようになるわけである。しかし、さらに言えば、そうしたアインシュタインの理論さえも超-相対性理論と言い得るような宇宙論が登場すれば、「部分的*にはもはや無効」というようなことが、ことによるとあるのかも知れない。それは筆者の想像を超えた世界である。

* 部分的、と言ったのは、依然として、そしてこれからも我々の日常生活の局面では、ニュートンの物理学理論が有効なものとして機能するわけで、この理論やニュートンの使った論法自体が無意味になったわけではない。

拙論は、たとえば「音楽」という広大な世界を、ある可能なくくり方、すなわち<個人>と<歴史的社会>という相対立する観念により限定し、その一方に光を当てているにすぎない。結果として、演奏や作曲する側である<個人的意図>と個人的意図をまったく度外視した集合的な<歴史的意義(意図)>というふたつの視点の存在が想定されることになったが、この論の場合、上記の個人的意図を便宜的に度外視し、歴史的意義(意図)のみを語るものである。別の言い方をすれば、歴史的意義(意図)を便宜的に度外視し、個人的意図という観点からのみ語る、ということを、まったく別の機会に譲ることもできるのである。そして、上記の万有引力の法則の理論のように、上に挙げた限定的なコンテクストの中での正しさ以上のものを主張する気は、さらさらないのである。


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