衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

言っちゃ悪いが私は天才である
March 7, 2001
 
English version

というような発言を見て好感を持った人がいたら、ぜひお目に掛かりたい(でもあなたが逆に天才の到来を心待ちにしているのなら、それが身近にいることを喜んでもいいかも知れない)。これはそんな言葉、“天才”に関する、あるひとつの論考である。

有名人の発言なり記述なりを見て「やはり天才は違う」とか言うのをよく目にしたり耳にしたりするが、その考えの仕組みはどのように理解すべきなんだろう。その有名人が有名であるばかりか「天才であること」があらかじめ分かっていて、あるいは断定されていて、その後、その人の発言ないし記述を見て「やはり天才は言うことが違う」ということなんだろうか。それともその発言ないし記述を見て改めて「天才であること」が分かったということなんだろうか。あるいは、もっと意地悪く言えば、その発言者自身が「その天才を理解できる才能を持っている」ことを表明したいのではなかろうか? つまり「天才を理解・認識できるあなた自身」というのが、やはり「天才に準じる存在」であることを世間に対し暗に示そうとしているんじゃないの(おほほほほ)、ということである。*

* 私の抜粋集『語り部たちのトピアリ』は、世のいわゆる「天才達」による発言によって、自身の論の強化を図ろうとしているのではなくて、われわれのような普通の人間に、ある種の洞察が訪れたり、その後の飽くなき対象への追求によって究められることがあるということを示したいだけである。したがって、こうした人物のその対象となる話題に限定した発見に注意を喚起したいに過ぎず、こうした記述を元に、彼らの中に権威を感じてそれを信ぜよ、と言いたいのでは断じてない。

だいたい、それがあらかじめ断定されているにしても、発言によってそれがようやく判明されるにしても、そのどちらに転んでも、私は容易にそれを理解してあげようという気にはなれない。ある人の天才性が世の中で広く認められているにしろ何にしろ、だいたいある人を天才だと決めつける態度がひとつには問題なのだ。それがアインシュタインだろうとモーツァルトだろうとピカソだろうと、誰だろうとである。今風の言い方をすれば、それって「安易な思考停止」なんじゃないだろうか。そも、どういう基準を満たしていれば、ある人が天才であり得るのか、「天才!」を連発する人に逆に訊きたい。非常に興味がある。それが分かれば、現代の世の中でどのような条件でそのような人間の出現が期待できるのか、というわれわれにとって「役に立つ課題」となるのではないか。

発言によってある人を天才だと、遅ればせながら断定できるのだとしても、依然として、私はそのような発言によってある人の才能なり「天才性」を容易には受け容れる気になれない。発言は、言動の一部を切り取ってくることでしかなく*、どんな子供でも、そしてあなた自身が、「天才的」な発言の一度や二度はしているものなのである。

* これについては「論証」はできないが、なぜそう思うのかを論じた関連文あり。

そして「天才」の存在を支える心理というのがむしろ問題である。「天才的だ!」と思わせるある創造との出会いの瞬間や、ある種の才能との出会いは興奮的 (exciting) なもんだろう。また、自分自身がそうであることを自覚したり、身近にそれと感じさせる人がいると思えることは、われわれを「幸せ」にするらしい。それほど「天才の存在」というのは、信仰の対象(信じられるモノ)を探し求める多くの人々の性向と合致するところがある。

一部には、ある人を天才だと決めつけるその態度の背景には、ある才能や「創造的人物」と自分(達)との間に明確な区別を設けることにより何かを期待する心理が厳然としてある。自分の努力では到底近づくことのできない途方もない能力を持った人。それが宿命的にどこかにいて、それがその分野においては絶対の善/権威であるということ。その目印 (standard) の設定をしたいということなのではないか。ある思想家や創作家や発明家が天才であるということが、多くの人々の暗黙の合意によって断定されると、まず、その天才が定めた、その分野に於ける越えがたい絶対善が同時に規定される。不幸なことに、場合によってはその専門分野を越えた影響力をその人の中から無理矢理引き出そうとさえする。もの作りや発想に関して才能があったということではなくて、なんかその人が全知全能であるかのような期待を抱く。ここに本当の意味での批評精神というものが入る余地はない。

百歩譲って、ある人が「天才!」であったとして、この人が喋る言葉のすべてがその天才を裏付けるものなのか。そのようなことがあるはずもない。また、天才のもたらしたモノには、一切弊害がないのか? もしわれわれの安全を脅かすような発明やわれわれの心の平安を乱すような「真実」の発見があったとして、そうした一切合切の可能性を予知できなかったその「天才」は本当に天才なのか? そこまで疑って掛かるのが批評精神というモノだろう。

一事が万事と言うことはもちろんある。しかし、天才は、間違わない、くだらない発言をするはずがない、というのは、公平さに欠いた期待論でしかない。

むしろ、私は世に言われる「天才達」がどのような間違いを犯したのかに興味がある。たとえばひとつには、物理学の分野で「天才」的な発想でもって能力を発揮したある人物が、別の分野や彼の人生の日常局面でどのような間違いを犯したのか、ということにである。これは、こうした神がかった天才達を地に引きずりおろすことに興味があるのではなく、とりあえず優れた人間の限界を知ることから、われわれの住む世界の危機を読みとることができると信じるからである。ことに、ある分野に天才的な能力を発揮した人は、まるで別の分野においても天才的な洞察力を発揮するのが当然であるかのように広く思われており、政治的な発言が許されたりすることがある以上、きわめて重大になる。そして、ことに、政治の世界における真の天才と言われるようなプロが、ときどきに正しい判断を下した一方で、歴史のどのような局面で間違った判断をしたのかを知るのは、きわめて重大な教訓となる。

こうした「天才達」が解決できなかった人類の問題や、他でもない「天才達」が残した人類の問題に対して、どのようにして取り組んでいかなければならないのかをむしろわれわれは考えなければならないのだ。「天才が言うことやることに間違いはない」という無反省につながりがちな、「天才無条件受け容れ論」を乗り越えることが、大事なのであって、それがわれわれをもっと物事に敏感にさせる。天才を疑ってみる。これが本来われわれ個々に備わっている能力を発揮させ、不断の努力から怠けさせなくするのではないかと、こう思うのである。

そしてなによりも、なぜ奴が天才で、あなたがそうでないのか。そして他人の天才を簡単に認める君、口惜しくないの、と言いたいのである。有名人の天才について感心してばかりいないで、身近な人々の中の、そして自分の中の天賦の才能を見付けだし、それを活かし合うことの方が、遥かに楽しい人生ではないのか。しかもその上で、あえてそれを「信仰」する必要もないだろう、とそう言いたいのである。


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