衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

カクシテ予言ハ成就セリ
あるいは、未だ見ぬ石川氏のエッセイ「アレゴリーとしての世界」への序文

August 22-24, 2001
 
English version

ワタシタチ人類ハ自ラ発シタ言葉ニヨリ敗北スル。
(まあ、それを言っちゃあ筆者がまず最初にハイボクしそうな感じなのは確かだ。)そう。われわれが“実際に”敗れるのは、敵から受ける力による強制であったり、物理的な自然の力であったり、はたまた自分自身や愛する者への「弱さ」に対してであったりというのが定説である。が、実際は観念たる言葉によって敗れるという主張が一方ではあったりして、それはむしろ<賢明な物謂い>だとさえ感じられるのである。ただし、余りここではハナシの間口を拡げることなく、われわれの使う比喩や譬え話が、われわれの現実認識の精度を歪め、「あるがままの世界」を捉え損なう危険性について考えたいと思う。


ほれ、うかうかしているからオレが先を越したじゃないか、石川。まあ、オレのような“有閑ガイ”と君のような“ご多忙者”が同じようなペースでサイトを更新できるはずもないと言われればそれまでだが、「往復書簡の端緒」を待たされる方としては、やはりインスピレーションが訪れたときは逃せないのであり、「善は急げ」という風に“筆”を進めて行くしかないのである。

しかし、昔からそうだが、われわれ人間は(とりわけ私は)喩え話が好きである。仏陀の言葉でもキリストが言ったとかいう聖書に見出される言葉にしても、喩え話で満ちている。かのリチャード・バックも言った。「救世主は喩え話がお好きなのだ」と。黙示録文学は、全体が「喩え話」で出来ているようなものかもしれない。「大いなるしるしが天に現れ」るらしい。それが「一人の女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた (Rev. 12:1)」と書かれていても、だれも本当にそういう像が空に現れたとは考えないだろう。幻想詩も黙示録と大同小異である。詩はそれがそこに本当に起きたかのように思われるある種の現実を象徴的に「書き記した」ものだ。もちろんそれは比喩や譬え話のようなものとして読者の前には現れるはずだ。如何に「単なる例え話ではない、本当に起こったことだ」とか幻視者たる詩人が主張しても、後から読む者からすれば、よくできた比喩の集大成なのである。

そも、われわれは象徴的に語られる言葉によってこころ動かされ、われわれの気付かなかった別の世界の在り方を、あるいは知らされることのなかった様々な「深層」を、この小さな頭が理解可能な<既知の概念>を以て置き換えることで想像することができたりするのである。そこに本来的な比喩の力があるのだろう。あるいは、世界のあらゆる場所がわれわれの知っている「似たような原理」で支配(制御)されていて、その中のひとつをよく知ると、全世界の仕組みを把握したような気になるのである。森羅万象がひとつの原理で動いており、いやむしろ、全宇宙が統一的な神の一部であるとする、いわゆる汎神論もこれの類であると思われるが、こうした世界の捉え方には抗しがたい魅力がある。(かくして宇宙観を補強して余りある、かの極めつけたるフラクタル理論が躍り出たのであった!てけてん![扇子で叩く音]

そうした直感で有機的に把握された理解というものは、それはそれで正しいのかもしれないし、その可能性をわれわれは頭から否定しない(いやむしろ、そうした把握を一度試してみ給え、と筆者は言いたい)。しかし、多くの人が共有できるような記号や言葉で説明ができるか(つまり“論証”できるか)ということになると、慎重になるざるを得ない。「下なるものは上なるものの似姿であり、上なるものは下なるものの似姿である」という錬金術の極めつけの金言(エメラルド盤に刻まれているとされる)が、下(われわれ自身/微小世界)を理解することで世界の上部構造(宇宙像)を憶測することが出来る(そしてその逆も真なり)ということを意味していると考えられるが、そうわれわれが解釈する誘惑に駆られるほど、われわれはわれわれの自然科学による世界把握の領域の拡大を知っており、また、ある種の覚醒した認識に到達しつつあるとさえ信じてしまいそうな今日この頃なのである。しかも、そうした科学的把握が洗練の度合いが進み、理解が複雑化するほど、われわれ一般人にはそれを理解するための「初心者用補助輪」のようなものが必要になる。象徴や比喩はそうした機能を持つ。だがしかし、そんななかで比喩の有効性やその力を知りつつも、どういう点で、それが落とし穴となったり自分を誤謬に陥らしめるのかを考えることは、すくなくとも有益な考察だろう。(それにしてもながい前口上だよ)

さて、比喩の魅力とその危険というのは、とりわけ擬人化されたモノゴトの認識の中に潜んでいるように思われた(石川とのオフでの会話で出た)。別に本当にそれが人間である必要はなく、たとえばそれは模擬された「犬」であってもいい。モノホンの犬でなくてもそれが「犬」状であれば、ぬいぐるみであっても写真であってもはたまたそれが絵であっても、それを事実上犬であると扱い、代替物であるにも関わらず、いつの間にかそれがホンモノの犬と違わぬものであると思い込むことが出来る。そもそもわれわれの想像する力のひとつは、そこにないものに関してリアルに存在するものと考えて感情移入することが出来るという才能である。

映画で起きているシーンは虚構であり、そこには実在しない。スクリーンに映し出されている影である。しかしそんなことはアタマでは分かっていても、それは「今そこにある」と錯覚することが出来、主人公のサヴァイヴァルを共に生きることが出来る。小説は単なる文字データの配列に過ぎないが、われわれがそれを読むとき、そこで語られるフィクション(作り話)をわれわれは真剣に体験することが出来る。20万円もするような犬のカタチを模したロボットの商品があれほどの人気を博し話題をさらうことができるのも、われわれの想像する力の賜物であると言ってもいい。われわれはある生き物の動作をシミュレートしているだけのおもちゃも、その具合が悪くなれば、本当のペットが病気になったように心配することが出来る。AI_Oを採りあげる迄もなく、数年前に流行った「た○ごっち」のようなプリミティブなデザインのものでも「飼育」に夢中になることが出来たことも、われわれの想像する能力(少なくとも想像する力の一側面)によると説明が出来るのである。

また、(これもオフでの会話で出てきたことだが)われわれがコンピュータ・ウイルスと呼んでいるものも、“生きた”ウイルスではなく、人間が頭で考え、自己増殖がプログラムされたある種のソフト(データ)である。このソフトに増殖する意志なり生きることへのモチヴェーションがあるわけではない。単にある条件を満たすと自動的にある種の反応をし、自己と同様のデータを複製しそれをどこかに送信するように出来ているだけである。たしかにある程度複雑なプログラムではあろう。しかしプログラムであることに変わりはないのである。しかし、われわれがこのソフトを「ウイルス」と呼び、「繁殖」したり、「攻撃」したり、「ワクチンで防御」したりと言っていると、知らぬ間に、このウイルスが生命を持った生き物の類であるような錯覚を持つ。やがては殺さなければならない相手だとその対象に「殺意」さえ抱く(あるいは対象から「殺意」を感じる)のである。

コンピュータ・ウイルスのbehaviorは、ホンモノのウイルスがそうであるような近似性があることは確かだ。だからこそ、そのプログラムを「ウイルス」であると呼ぶことで、多くのことが容易に想定することが可能だ。ウイルスである以上、われわれはその「根絶」を望むのであり、その「予防」のためには、それに対する「免疫力」を付けておくことも有効だ。そのウイルスに対する対抗手段が確立すれば、そのウイルスは猛威を振るったインフルエンザがそうなるように、いつの間にか下火になりいなくなる。確立した対抗手段のプログラムの仕組みが判明すれば、それを破るより一層強化された「ウイルス」が登場する。こうした自然発生するウイルスとそれに対するワクチンの開発という自然と人間の競争みたいなことが、コンピュータ・ネットワークの中で起こるわけである。ここではプログラムをウイルスであるとする例え話が、ほとんど比喩であることを忘れさせてしまうほどの現実味と説得力を発揮しているのである。(この辺りを石川には記述を深めて貰おうか)

われわれは恐らく、われわれの手で造りだした人工物によって、まず心が支配されてしまう。子供がテディベアを愛ある生きものであると錯覚しているように、われわれはそうした人工物に対して愛着を覚える傾向になかなか克つことが出来ない。もし、心理学者風に、ぬいぐるみに対する愛を「自己愛の変形したカタチである」と説明することが出来るなら、われわれはほとんどそうした幼児的な「変形した愛」にのめり込むべく、あらゆる先進技術の開発に勤しんでいるとも言えるのかもしれない。われわれが利便を追究しているというのは、実は単なる方便で、自分たちに似たものを自ら造りだし(これぞまさにゴーレムではないのか)、それによって無条件に愛されたい、そしてこちらからは条件的に愛を注ぎ込みたいと考えているのかもしれない。しかもそこにある悲喜劇とは、実はそうした感情も錯覚に拠っているということである。われわれを愛していると思えるその対象は、あなた自身が作りだしたもので、実はあなたを認識さえしていないのである。そこにあるのは機械的な反射でしかない(テディベアは反射さえしない。あるのは子供の想像力である)。しかしこれ以上の言及は「危険なAIの物語」の重複になるのでこれ以上繰り返すまい。

ハナシが不吉になってきたところで、言葉への敗北についてもっと言えば、予言の自己成就性 (self-fulfillment) について避けて通ることは出来ないだろう。これ以上に怖いことはないと言うくらいの恐ろしい、例の“あのハナシ”である。われわれは、否定的未来予測に魅入られる。世界の将来像が予言されると、それを「予防」しようと努力するが、そうしたひとつひとつが裏目裏目に出て、われわれの世界がむしろその悲観的予測の通 りに確実に近づいていくというまさにそのことである(映画“Twelve Monkeys”が秀逸だったのは、その自己成就性をみずみずしく描くことに成功しているからである)。それが本当だとすると、われわれはまさに逆説の世界を生きている。「われわれはこうしていると、いまにこうなるぞ」と予言され、「そうかあ、そうなるのか」と言われたみんなが思う。その言葉が権威を持ちより多くの人が信じるようになればなるほど、その予言は成就しなければならなくなる。あるいは狂信的な信仰者は信じた対象が正しかったことを証明するために実力を以て成就させる運動に荷担するのである。人間に対する言葉の勝利である。言葉は神になる*。予言さえなければ、そんなことは一度も「起ころうとさえしなかった」のに、と嘆くような局面 はこれからどんどん出てくる(これも予言だぞ〜)。

* あの有名なジョンさんも最初に言っているように、「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. (John 1:1)」だそうである。これってはたして旧約の『創世記』「In the beginning God created the heaven and the earth.」に対して挑んでいるのではと思わせるほどの「やる気」と「アンビション」を感じるよね。

予言というのは、ひとつが成就すると「すべてが成就されなければならな」くなる。それは、ひとつが成就されるとそれが権威として働くからである。ひとつでも外れることは許されない。それは、それを信じる者が信じる言葉に対してその根拠のvalidityを証さなければならないからで、その有効性の証明と権威強化のためには、成就されることが自然な流れでなくても、成就される方向へと歴史が集成(修正)されていくのである。

予言や予想は言葉として発せられるや、まるで自己増殖するコンピュータ・ウイルスのように、一人歩きをして、われわれをその終末的世界へと導いてくれるのである。あらゆる予言の類を「悪しきもの」「悪魔から出たもの」と考えて、キリスト教そのものさえ<悪魔の宗教>だと呼ぶ人が出てきたりするのも、その点に於いては理解できなくもない。(勘違いしてはいけないが、理解はできるが共感はしないぜ。第一、そうした宗教に対する見方こそ一面的なんだよ。)

発せられた言葉にはこうした力と罠がある。標語には人を無反省に語られた事への信仰をもたらす力がある。カクシテ予言ハ成就サレルのである。で、言葉が出尽くして、とりとめもなくなったところで、本題「アレゴリーとしての世界」にバトンタッチしよう。(後はたのむぜ、いしかわ。)


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