衒学者の回廊/園丁の今の言の葉

自尊と愛国

November 12, 2002
 
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自尊心、「自分を尊いと思う心」「自分を大事に思う心」は、叩かれて芽生える。自尊心自体に良いも悪いもない。周囲に愛され、大事にされながら育てられ、「健やかに」成長した者は、自尊心などを意識せずにも朗らかに生きていくだろう。あるいは、自然に自尊の念が育まれているはずであり、「自尊心を伸長させよ」などと、誰かに敢えて教えられる必要もないであろう。彼には、当然のこととして自分を大事にする傾向が育まれているのであり、また過剰かつ不正な方法で自己を守ろうなどと画策することもないはずである。

もし、だれかの心に明確な自尊心の芽生えの徴があるとしたら、それはその人物が叩かれているということである。人間が社会的動物として生き残ることが前提だとすると、その生存が危ぶまれると、他者との関係の中で自尊心が発生する。それはひょっとすると先天的に萌芽がプログラムされているのかも知れないが、そうした(内的な)意識の発生は、外的な要因に伴い後天的条件によって惹起されるものである。その点で、誰かに一見自尊心の強い顕現がないように見えるとき、「彼は自尊心を持っていない」と言うことにならない。彼はそれまで、自尊の意識を発展させる必要が、なかったに過ぎないのである。

その意味で、筆者は、自尊心というものが、生まれながらに備わっている人間の特性であるというよりは、社会学的、あるいは「病理学」的なものだと理解している。試しに、ヒトが社会に生きておらず、無人島で他者と無関係に生きていたり、あるいは近親や同族だけに囲まれて、敵からのなんの脅威もなく安全に暮らしていたとすれば、そこには自尊心などという心の動きが出てくる必要がないはずである。それはあくまで対人関係的に発生するもので、あくまで社会的なものである(そして人間にとって社会的存在であることが生存の条件であることも、自身を顧みたとき、おそらく否定できない)からである。自尊心は、心が人に傷つけられ、自己存在の尊厳が危うくなって初めて自分を守ろうと反応するものであり、そのときに発生する心の動きなのである。自分を尊ぶ心がなければ、生存そのものが侵されてしまうからである。このように周囲との関係や扱われ方などの外的な条件によって発揮されたり、されなかったりすることを考えれば、自尊心自体の善悪を云々することがナンセンスであることが分かる。繰り返すように、それはむしろ必要に関連して出てくる当然の精神的な反応なのである。

そして、自分の家族への愛(同族愛)、自分の属する組織(思想・結社)への愛(同胞愛・忠誠心)なども、ある種他者との関連において、反応のひとつとして出てくる「病理」的な心の動きということができるのである。つまり、他者が構成する組織より自己の仲間が構成する組織の生存を優先する心の動きが、まさにそれであり、どんな場合でも自己の優先的な生存を前提とする、ある種極めてエゴイスティック(自己本位)な反応なのである。

だがここで、組織への愛というのは組織が強制しうるのか、という別の問いを想定する必要がある。仮に、家族への愛を普段自覚していない人がいたとしても、いざ自分の家族が危機的状態に陥れば、「家族愛」を持っているとしか説明できない行動に出る可能性がある。しかし、家族を守るとき、普段それを意識する必要は全くないのであり、いざというときの行動こそが愛の存在を証すのである。その意味で言うと、人為的な家族愛の「精神性」を称揚する必要もなく、いざというときの行動のみが家族を守るはずである。

まったく同じ意味で、愛国心自体に良いも悪いもない。愛国心の芽生えがどこぞにあるとしたら、その国が叩かれているということである。芽生えがなければ、その国に脅威はない(あるいは少なくとも脅威を自覚していない)ということである。そして、愛国心の有無が問題になるとき、それは国家としての生存が疑問なく前提されていることを改めて確認しなければならない。国として生き残ること。仮にそれが各個人の生存の前提だとすると、国の生存が危ぶまれると、愛国心が発生する。それが基本的なメカニズムである。

しかし、現今の中央教育審議会(文部科学省の諮問機関)による「愛国心を高めるための議論」のような動きとはなんであろう? そもそも、「人為的な操作によってしか産み出せない人間の心のありかた」に依存して生き残りを図る組織の在り方とは、いったい何であろう。愛される組織とは、その組織の構成員をまもり愛する組織ではないのか。愛されない組織だけが、組織への忠誠や愛を強制するのではないのか?

「自分の生きている国を愛する気持ちを持つのは、当然であり、それがないこと自体が国家の危機である!どうたらこうたら...」というのは、そうかもしれないが、やはり本末転倒である。愛される国家運営をしてこなかった結果が国民の愛国心の欠如なのであり、それを強制することで彼らは尚一層の「国家離れ」を助長するはずである。

親が自分への愛を子供に強制してうまくいった試しがあるか? そうした子への親の身勝手な「愛返し」の強制が、却って子供が自分から離れていく原因になる。求めるほどに、それは得られないのである。筆者はむしろ国が真剣に「愛国心教育」を検討しているということを、この国が他国から政治的・軍事的に脅威を受け始めていることのひとつの表れなのであろうこととしては、理解できる。だから、懸念すると同時にバカげたこととして真に受けない。愛国を強要すればむしろ逆効果である。まるで人間の心理や心の動きというのを理解していない。これが、文部科学省の「科学」のレベルなのである(まあ、一部の役人のレベルカモシレナイが)。

そもそも、自発的な人間の心や必要に応じて自然発生した組織は、組織自体が愛されることを主張することはない。組織が必要であったから発生したのであり、目的が達成されたら、それは自然解体する体のものであるべきだ*。そして組織の目的をまっとうして解体するそのこと自体に善も悪もない。しかし、自発的な必要に応じて発生したのではない組織(国家や村)というのは、人間の作為的な努力でもって組織の生存を目的化し、それへの「愛」を強制することが歴史的にある。それはこれからも確実にある。そして実際に強制が始まったとき、その組織は構成員の安全をむしろ脅かす存在となるのである。

* でも残念ながら、自発的な解体をあらかじめ内包している組織という賢明な組織がほとんどないのも確かなのである。

私は、目下、親になる予定はないが、仮に親になったとして、自分を無条件に愛することを強要する暴力的な親にはなりたくないものである。理想だと言われようが、なんだろうが、「どのような愛も、それは尊敬によって勝ち取る」というのが原則だからである。

ナイーヴなヤツだと嗤いたければそれで結構。


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