衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

戦争“政策”論批判

March 14-15, 2004
 
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「政策としての戦争」とか「国際紛争の解決手段としての戦争」とかいう言い方で“戦争の価値”というものを観念上だけで再評価し、果ては戦争の必要性を主張する者がいる。残念ながら平和主義というものは相対化されて久しい(これに関して、左派思想家はもっと自覚的であるべきだ)。これらの言い方は、平和主義について反感を持っていた者が、戦争について、最初はおずおずと遠慮がちにだったが、今やいわゆる国際政治に関しての「ちょっとした事情通」を自称する知識人なら一度ならず、しかも堂々と口にしてみたりするような言い方なのである。

「政策としての戦争」を口にする人は、戦争は「国家の政策」だから国家活動のオプションとしてありうる...ひとたび国家が「国益」を守るという一大事業を考えるならば、戦争(= 武力行使)という手段をまじめに考慮しないわけにはイカンだろう、みたいなことを言い出しているわけである。暴力と破壊という紛うことなき戦争の本質から目をそらし、「政策だから」という言い方でいとも簡単に思考停止してしまうわけである。こうした考え方が出来る人には言いたいことが色々あるが、ここではその大部を省略する。

しかし、とりあえず言えることはこういうことだ。戦争を「政策だから」というひとことで肯定するような理論家は、銃後の安全地帯にいてそのようなことを焚き付けているのである。彼らには傭兵や義勇兵にでもなって自分が前線に行って闘うという具体的なオプションをもっているわけでもなければ、戦争の事態になったところで志願兵になるつもりもない。自分が前線に行って闘う気のない理論家が「手段としての戦争」を口にしているのである。つまり戦争の有効性や必要を認める思想家や政治家は、自分以外のだれかが戦場で血を流せば良いと考えていることと同じなのである。これは極めて差別的な態度と言うべきであろう。

だが一方、仮に前線で闘うことを厭わない“理論家”がいたとしたら彼らの戦争を肯定できるかと言えば、それも違うのである。「自分でリスクを負っているから」という理由でその理論を肯定することも実はできない。自らの理論によって自らリスクを負うのはそのひとの勝手だが、その暴力への個人的な志向性(嗜好性)のためにその他の大多数を巻き込んで良しとするのは、大多数の人々にとって実に迷惑な話である。こうした戦争(の一部)肯定の発言を、自分の問題と切り離してできる彼らは、そうと知ってか知らずか戦争を「政策」として採ることを考慮している勢力に力を与えているに他ならないのである。

さて、「国際紛争の解決手段としての戦争」を口にする人がいるが、これはどういう意味なのだろう。「国際紛争」という抽象的な出来事がどこかに存在していて、それを解決してあげるために、だれかが戦争(軍事力)という手段をもって乗り込んでいって快刀乱麻することができる、というような論法なのだろうか? そういう夢物語も世界は広い?からあるのかも知れないが、それを口にする人は、実のところそこまで具体的状況に関して考慮していない。していないからこそ、そのような観念上のことを口にできるのである。

もし、自覚的にそうしたことを口にする理論家がいるとすれば、それは単に未解決な「国際紛争」が放置されている状態が気持ち悪くて不健全だと考える、あるいは灰色を灰色の状態にしておくことができず、白か黒かを決めなくては気が済まない「潔癖」主義者の類の世迷い言なのであろう。あるいは、いずれにしても軍事力と軍事力を闘わせて雌雄を決すれば良いではないかという勇ましい考え方は実に単純明快だが、そんなものはわれわれからすれば「考え」と呼ぶことすら値しない。

筆者の考えでは「国際紛争」というような抽象的なものなどはない。あるのは具体的な<国家間>紛争である。あるいは、一国内での民族紛争 =「国内紛争」である。しかし、「国際」と言うからには、そのような紛争はここでの議論の対象ではあるまい(原則的には)。実に「国際紛争」という言い方はものごとを曖昧にして、自分の生き死にと関係のない他人事にしてしまう言い方である。あくまでも、AとBという国家間の互いに対立する主張のぶつかり合いというのが「国際紛争」の実態だ。そして、口論みたいなものから実際の軍事的交戦状態までを含めたものが、その具体的な紛争の中身である。国家間対立が二国間ではなく、多国間になったところで事情は同じである。規模の大小に関わらず、あるのは実際の交戦状態(=戦争/小競り合い)というのが「紛争」の実際の中身なのである。

ということは、戦争(一部)肯定論者「国際紛争を解決する手段が戦争である」という言い方は、ほとんど「戦争を解決する手段は戦争である」と言っているのに等しく、何の解決手段の提出にもなっていないのである。実は、「国際紛争の解決手段としての戦争」を口にする人は、「だらだら続く口論はやめてさっさと肉弾戦で解決せよ」とでもいいたいのかもしれない。おそらくその辺りが「国際紛争の解決手段としての戦争」なる観念論を口にする人の本音なのである。要するに、「国際紛争の解決手段」と言ってしまえば口当たりはよいが、実にレベルの低い「対立があるなら戦え」と言わんばかりの戦争肯定論にすぎないのである。そしてそれは戦争を「政策」のひとつとして、採用の可能性を考えるような、絶対に前線に赴かない政治家や理論家に戦争という手段の正当性を与える口実なのである。

「厭戦や反戦思想そのものはこの地上から戦争をなくさない」という主張があるのも、われわれはすでに知っている。しかし、戦争の実行を最終決定できる立場にいる者が、心の底から戦争という手段はあらゆる点で「割に合わない」ものであるという実感をもっているか、人道的な観点から暴力に対し絶対の反対をするならば、戦争という手段は取られることがありえない。そして、その全人類がそれを心の底から信じるならば、その方法はもはやいかなる意味でも問題を解決する方法ではなくなるのである。

戦争が「割の合う」ものであると信じる者たちとは、どのような人たちであるのかを考えなくてはならない。そのような者達こそが、いざ戦争になったときに真っ先に死んでいくわれわれ普通の人々や、もっと恵まれない立場にいる社会的弱者にとっての、すなわち大多数の人々にとっての、共通の敵である。戦争が「割の合う」ものであると考える者たちは、戦争によっても身内や自分自身の命が失われることを避けられる特権的な場所(地位)にいて、かつ戦争によって利益を上げることができ、また戦争を実行に移すことのできる政治家を操って間接的に戦争が起こることを可能にする者達である。しかし、多くの政治的な決定がそうであるように、戦争という権力者の採りうる「政策」というのも、ほとんど多くの人々にとっては、まったく割の合わないものであることは確かなのだ。しかし、そうした多くの人々が戦争に協力し、戦争を成立させる戦闘に於ける構成員となる。

この主張は、「非暴力・絶対平和主義をお題目として唱えれば戦争が回避される」ということを信じるほど楽観的な態度を意味していることとはわけが違う。いかなる意味においても、われわれの態度は信仰的な絶対平和主義の立場とは異なるものである。われわれ戦争を語るものは、基本的にペシミスティックである。悲観的であるからこそこれを語るのである。そしてその悲観が単なる思い過ごしであったと思える日が来ることがこの悲観的態度の最終目的なのである。

戦争の有効性を信じる心が戦争を起こすと言えば、所謂「現実主義者」がすぐさま「単なるナイーブな物言いだ」と言いそうなことくらいは予想が付く。だが、その現実主義を以て戦争を肯定する者達こそが、われわれを暴力という手段の行使に誘っているのであり、暴力の連鎖を断ち切ることから妨げていることをわれわれは知るべきだ。

ジョン・W・ダワーの『容赦なき戦争』は、戦争の無効性(割のあわなさ・バカバカしさ)というのをあらゆる観点から論証している本である。そして、人種主義というものが戦前・戦中・戦後を通して、結局は根本的に克服されざるものであったことを膨大なリサーチを通してダワーは感じている。一見克服されたかに見える日米双方の(そして世界中にある)人種主義は、いつでも必要とあらば、復活を遂げ、戦争というあらたな紛争を作りだす“紛争解決手段”を実行させるための強力かつ便利なロジックとして、人々の(そして特に知識人の)口に上ってくるのである。

ダワーの憂鬱は、まさにわれわれの憂鬱でもある。

ダワーの『容赦なき戦争』を読む


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