衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

われわれの中の「永遠に西洋的なもの」(1)

April 4 - June 3, 2004
 
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最近ひとの書いているエッセイなどを読んでいると、「西洋的なもの」が批判の対象としてやり玉に挙がっていたり、そこまで行かなくても西洋へのアンチテーゼとしてのなんらかの自(国)文化に言及していることが目について、西洋ってずいぶんと人気がないんだなぁなどと思ったりします。確かに、そのように批判される部分というのが「西洋」にはあるのかもしれないし、どうやら「西洋的なもの」は、一度「わるうござんした」と世間に反省の色を見せなければならないような旗色です。

こんな事を書くと、筆者は西洋(あちら)側の人間か?とか揶揄されそうですが(いや実際そうかもしれません)、その前にわれわれの口にすることのある「西洋」あるいは「東洋」とは一体何なのかを、もう少しはっきりさせようという話があったって良いんじゃないか、と思ったりもするわけです。そして、何よりも、他者を他者として認識し、憎悪して排除するよりも、異なるものへの理解を深め、共存の道を探る方が、われわれのためになろうと思うからです。

しかし、「西洋 vs. 東洋」などという話は、余り大風呂敷を広げても筆者の手に余るような話ではあります。東洋の文化とは何か、みたいなことを論じるほど、筆者は「東洋」を知っているわけでもないし、東洋どころか、「日本独自の文化」みたいなものだって、どれだけ知っているかは実に疑わしいのであります。でも、西洋に比べて、東洋がどうのと仰る方々が、筆者以上にそうしたことに精通していると必ずしも思えない印象もあるんであって、大概の場合、漠然とした印象や、“権威”が言っていたことをくり返しているだけで、自分の言葉を話しているのではないんじゃないかと思えたりするわけです(もちろん、私が間違っている可能性だってあります)。それで、何回かに分けて、われわれの思っている(らしい)「西洋」というのを検討してみようと思ったのです。

そもそも「西洋」と言うとき、それってヨーロッパの何処を指しているのでしょう。筆者はまずそれを問いたい。中欧や東欧は「西洋」ではないんでしょうか? はたまた北欧は?ではアメリカ含まれるのでしょうか?(これって、単なる揚げ足取りなんでしょうか? いえいえ大まじめです。)

おそらく西洋と東洋を比較して、われわれが「東洋の文化の素晴らしさ」なんかを誇らしげに語っているとき、ヨーロッパの何処の文化が問題なのかまでは、はっきり意識してはいないんじゃなかろうか。そう思うわけです。われわれがそうだと信じている「浅薄な西洋文化」というものは、おそらく漠然と「キリスト教文明圏」みたいな事を想定しているんでしょうけど、中身は?と言うと、「ただなんとなくヨーロッパあたり」というだけのことで、ヨーロッパの中にあるさまざまなキリスト教信仰自体の温度差や習慣・文化の多様性などというものは、結構安易に度外視されていると思うわけです。

結局「西洋って...」などと批判的な言辞が放たれるとき、欧米(つまりアメリカを含む)、しかもとくに「white, anglo-saxon, protestant」(いわゆるWASP)文化のもっとも世俗的かつ権威的で、しかも度し難く覇権主義的な部分(つまり、憎悪されるべき最悪な部分)だけを指して、述べられていたりするのを感じるわけです。もちろん、いわゆる「東洋」に対する概念である「もっともひろい西洋」の中には、みんなのよく知っている(そして悪名高き)“ワスプ”も当然入っているんでしょうけど、本来なら、われわれと似たような文法言語を話すと言われる、ハンガリー人やフィンランド人のことも、西洋文明圏の中にほんとうは当然入ってこなきゃいけないわけです。でもわれわれは、そこまで考えて「西洋・東洋」を云々しているわけでは、ほとんどない。というか、そこまで考えると、自分が主張したい「西洋 vs. 東洋」の議論や、どちらか一方の優越論の構築ができないから、そうした考え方はしないわけです。

「西洋」=「キリスト教文明圏」だと思ってしまうひとにとっては、バルカン半島のイスラム教徒たちは西洋人ではないことになるんでしょうか。「ロシアはヨーロッパなのか」という、まじめな議論だってある。ロシアの人々は、その問題についてずっと意識して、ヨーロッパの歴史に「参加」してきた。そして、キリスト教に関しても、いわゆる西ヨーロッパ人たちより、むしろ誇り高き信仰者であり続けている(ように見える、少なくとも)。そしてまた、ロシアをとりまく別のヨーロッパ人たちも、ロシアをどう捉えるべきかをずっと意識してここまで来た。現在のEUに、ロシアが当然のように入っていないことは、そうしたヨーロッパ人達の「区別」や「意識」を十分に反映しているのである。キリスト教文明圏が西洋である、という定義をまともに信じれば、ロシアは「西洋」の中に無条件に入って来なければならないが、当のヨーロッパ人達がそれを巧妙に避けている。

一方、ひとくちに「キリスト教化された」と言っても、いまだにさまざまな土俗宗教の名残をとどめる信仰をしている、と信じられている「今や人気のケルト系の人々」というのは、われわれの言うところの「西洋」の一部と言うべきなのでしょうか? 一方で、彼らは本当に今でも非キリスト教徒なのだろうか、という疑問もある(そうではあるまい)。それでは立派なキリスト教ビザンチン文化を花開かせ、現在は最も穏健なイスラム教国となっているトルコの場合は? 「キリスト教」=「ヨーロッパ」であるというのなら、「彼らはかつてヨーロッパ人だった」とでも言うのだろうか。トルコがいつかEUに加盟したら、初めてヨーロッパになるとでも言うのだろうか?

プロテスタントの話が出ましたが、それではカトリックを信仰しているラテン系の人々は、われわれ「東洋人」と一体どれだけ「違う」人々だというのだろう。もし、「キリスト教文明圏」=「ヨーロッパ」だとしたら、中南米の諸国も皆さんが批判するヨーロッパ文明圏の一員になりますが、どうなんでしょう?

この場合は、ベルギー人もドイツ人もオランダ人もイギリス人も入ってくるわけですが、彼らは十把一絡げにできるほど「似たような人々」なんでしょうか? やはりこうした厳密な定義の努力によってさえ、「西洋」の定義に成功するとは思えません。

つづく


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