西洋と東洋の芸術の比較みたいな話になると、よく出てくるのが「間」だったりします。東洋のものは間があって、西洋のものにはない、二つの文化の間には、埋めがたい違いが横たわっている...みたいな話です。 西洋と東洋の対立というものがあるという前提で、われわれは、自分たちの習慣・文化を「東洋」に属するものと無条件に捉えて論じてしまうことがあるように思えます。しかし、それは本当に「東洋」という枠組みの中に普遍化できるようなものなのかどうかは、よく検討してみなければならないはずです。それは、実は西洋に起源を持つものの一部なのかも知れないし、あるいは「東洋的」と言うよりは、単に「日本的」なものかもしれない。仮に、日本的だとしても、日本の江戸時代のある時期に深められた文化なのかもしれない。そうだとすれば、実に、ここ200年くらいの間にようやく定着した、「比較的最近の文化」かも知れない、などなどのことが言えるわけです。 ところで、日本の土壌で培われた文化的遺産を、西洋の伝統で培われた方法で表記・表現するとことが可能かどうかという論争があります。特に、日本の文化が唯一かつ特殊であるという立場を採りたい人にとっては、重大なことのようです。音楽で言えば、日本の民謡やわらべうたを、西洋音楽の記譜法で表記できるかどうか、という疑問も、それに含まれるでしょう。表記できるかどうかという疑問は、すべきかどうかという思想上の問題とは別途に、検討可能なことです。 日本の詩歌の世界では、「五七五」とか「五七五七七」などの形式があります。また、音楽の拍子には「三三七拍子」なんてのがありますが、あれは私に言わせれば、形式上は「間の文化」とは、縁もゆかりもないものです。日本の拍子の数え方が、休拍を数に入れずに音のする拍だけを数えただけの話だからです。「五七五」や「五七五七七」も「三三七拍子」だって、あえて挑発的に言えば、西洋音楽と同じ「4で割り切れるケイデンスを持っている」と考えることが出来ます。ケイデンスというのは、拍子の割り振りが4小節、8小節、12小節、16小節...という風に、音楽において4で割り切れるところで「切りの良さ」を感じる部分のことです。そこには、息継ぎがあったり、ポーズ(間)があったり、休符があったり、最終音に置き換わるような強調的な持続音があったり、はたまた「繰り返し」の指示が発生したりすることがあります。 ふるいけや と、シラブル(音節)だけを数えれば、俳句というものは、たしかに「5・7・5」の形式になっていますが、「ふるいけや」と「かわずとびこむ」のあいだには、漠然と「間」があるのではありません。1シラブルを1拍とかぞえれば、「ふるいけや」と「かわずとびこむ」のあいだには、ほぼ3シラブル分の休拍が入っているわけです。「かっかっかっ」と何かを叩きながら、それに乗って「音楽的」に1シラブルずつを読んでいけば、行間には「休符」(ないし、伸張された音)が入っているのが分かります。つまり ふるいけ|や●●●| その休拍を人によっては「や〜〜〜」と、約3拍分伸ばすのかも知れません。どちらにしても、反感を受けるのを覚悟で言ってみれば、短歌は2/4拍子で、6小節の立派な音楽です。リズムに関してだけ言えば、「5・7・5」は、別に日本の文化として本当に独自を誇るようなことではないかも知れません。 啄木の短歌で「五七五七七」を見ても、基本的には同じ事です。 たはむれ|に●●●|●ははを|せおいて| 「に〜」を伸ばす人がいると言うことですが、それだってノーテーション(記譜)可能です。 たはむれ|に〜〜〜|●ははを|せおいて| それでは、運動会の応援の時に手拍子で叩いたリズム「三三七拍子」の場合はどうでしょうか? ××× しかし、ここで言う「拍子」というのも、俳句や短歌の時と同様に、「手拍子が鳴っているときだけ数える」ということであり、シラブルが発音される部分だけを数える、という面では考え方が同じです。「三三七拍子」と言っても、西洋音楽の記譜法からいけば、実際は ×××●|×××●| こうした「切り」の良さ「間」の良さというのは、このように見直すと、われわれが考えているほど神秘的なものでも何でもないのです。ただこのように考えてみたことがない、(あるいは、西洋と一緒にされたくない)と言うだけの話です。言ってみれば、日本ではまだ「0が発見されていなかった」だけなのです。つまり、休拍という「無音」が、拍であると考えられなかっただけなわけです。 (つづく)
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