衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

われわれの中の「永遠に西洋的なもの」(4)
〜「間」の文化は、われわれ独自のものか?

April 4 - June 8, 2004
 
English version

ここまで来て、当然の事ながら予測できる反論は、俳句や短歌の私が「休拍」と呼ぶところである「●」が3つ連なっているとき、その「間」は正確に3拍であろうはずがない、というものです。もちろん、正確に3拍に数えたりはしないでしょう。しかし、そこには、ほぼ3拍程度の「間」が不文律的に想定されているということが、解釈可能だということが言いたいわけです。もし、正確に3拍でないとして、その「測定不能の曖昧な間」というものが、日本の詩歌にのみ独特のものと言えるのでしょうか?

それは残念ながら違うと思います。そもそも西洋の休符や音符さえ、伸び縮みする類のものです。休拍や引き伸ばされた音符が、正確に時計で計ったように奏されるわけでないことは、西洋音楽でも自明の事です。そこら辺の曖昧さというのは、敢えてフェルマータなどで積極的に記譜されることがあっても、その長さは、音楽を奏する人の「センス」に任されているという類の、実に“好い加減”なものなのです。

最近、このような文章を読んだことがあります。俳優にあるセリフを言わせるためには脚本がある。同じように、ある旋律を奏でるために、楽譜がある。しかし、俳優のセリフは、一度語られたら、もう二度と書き言葉には戻らない。俳優のセリフは肉声として空間に解き放たれてしまった以上、それを再び書き言葉にすることは不可能だ、というようなことです。読んでいて、これは、おそらく脚本と実際のセリフ、楽譜と実際の音楽、という二つの関係は、似て非なるものである、というようなことが言いたかったのではないかと思われたのですが、事実はむしろその反対です。どちらにしても、実際のパフォーマンスを紙面上に表現・反映させることは不可能であって、実際のパフォーマンスの極一部が、便宜的に表記できるだけです。その意味で、脚本も楽譜も、どちらも、実際の劇なり音楽なりを演出するための、大雑把なガイドラインでしかないと言うことになります。

実際の音楽の音をふたたび譜面にすることが不可能だ、というところまではまったく同意できます。音楽をしている人なら、自分の使っている譜面とやらが、音楽の実態の極一部を便宜的にメモしたものに過ぎないことは、たいがい知っていると思います。脚本には、どのような言葉を話すべきかは書かれていても、どのように読まれるべきかまで、すべてが書かれているとは限らないわけです。いちいちト書きを書く脚本家もいるかも知れませんが、それで自分の意図をその脚本だけで俳優達に完全に伝えられるとは、常識ある脚本家なら、ゆめゆめ思っていないでしょう。「この場面でこう書かれていて、しかもこの俳優が読めば、だいたいこうなるだろう」くらいの、大雑把なアウトラインに違いありません。同じく、西洋音楽の譜面だって、音楽の要素が紙の上にすべて書かれているなんて考えるのは完全なナンセンスです。

譜面に書かれているのは「音程の高さ」と「おおまかなリズム」(場合によってはそれに音量)だけで、それをどう奏するかというのを「読み解く」には、(師匠と)経験と熟練が必要です。そもそも、ある音楽が、あるカタチで奏されると言うのは、譜面が残っているからだけではなくて、それをどう奏するのかを知っている先輩たちの耳と演奏で、途切れることなく何世代にも渡って伝えられてきたからです。(そして、この論では展開しませんが、自分の身体で、正しい奏法とそれに伴って感じる快感を実感することができるからです。)それを口伝的に教えるのが「音楽のレッスン」と言えるわけです。そこで譜面の読み方を教わることもあるでしょう。しかし譜面の読み方は、音楽のレッスンの極一部のはたらきに過ぎないのです。

西洋のクラシックの世界でも、良い師匠は生徒にこう言う。「譜面を読んで演奏してはだめだ」と。そしてその先生は、自分で演奏してなんども聴かせる。そして生徒に実際に真似させて、なんども直させる。つまり、西洋音楽といわれているものだって、楽譜で伝えられていることは、音楽のごくごく僅かな部分だけなのです。そして、本当の音楽のレッスンというのは、洋の東西を問わず、口伝です。

筆者が、お気に入りであったリュリ作曲の「トルコ風行進曲」の合奏譜を「先生」に初めて見せて貰ったとき、文字通り絶句した覚えがあります。「この譜面が奏されるとあのようになるのか!」あるいは「あの音楽がこのように記譜されていたのか!」と。まったく楽器編成も、リズムも、その「譜面」から伺い知ることはできなかったわけです。演奏されるとき、非常に絶妙にスイングされるその音楽のノリと最も大事なエッセンスは、譜面上には、これっぽっちも表されてもいなかったのです。

すくなくとも、それまでの自分の受けた音楽教育から、それを読み解こうとしても、楽譜に記されていないことは、「読み解くこと」ができなかったわけです。

日本の民謡や童歌(わらべうた)を、西洋音楽の記譜法で、表現されるべきかどうかの是非は、別問題として検討されるべき事かもしれません。自分の考えでは、そうした記譜法に関しては、条件的には肯定できます。もちろん、理想ではないですけど。それは、きちんと口伝で歌い方を伝えられる師匠がいるか、歌い方を憶測できる録音物があれば、と言う厳しい条件があっての話です。でも、民謡や童歌を口伝で教えられる人がほとんどいなくなった以上、録音物やそうした譜面で残すしかないわけです。もちろん、「西洋音楽の記譜法」でなければならないわけではありませんが、西洋音楽の教育を受けた多くの人には、それが大きな「助け」にはなるでしょう。

もちろん、歌という実文化が滅びるのに任せて、記録も同時になくなったってかまわん、という考えがあっても良いですが、「保存すること」が当面求められる前提であるとしたら、どのような方法を利用したって構わない、というのが筆者の考えです。また、現実的に、日本人のほとんどが、西洋音楽の記譜法に親しみがあり、他の方法では、「以前発せられることのあった音」を連想できないのであれば、民謡や童歌の西洋音楽的な記譜法で残すことは、最善でないにしても、ないよりはマシだという意味で、肯定しても良いと思うのです。

実際に、どのように奏されればいいのかと言うことが、長いこと読み解けなかった譜面の読み方も、年月を越えて、熱心な研究によってかなりの信頼度をもって推測されるという、これまでも起こり得た、いくつか歴史的業績に似たみちを、将来にも残すことになるからです。

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