衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

緊急を要する問い:「クルド人難民座り込み」関連

August 19, 2004
 
English version

これは偽善に陥らないための倫理的な問いです。

日本にやってきたクルド人の難民の2家族が日本の難民政策・入管行政によって受け容れられていないこと、そのためにこの2家族がこの瞬間も青山の国連大学の前で座り込みのデモンストレーションを続けていること。政治亡命とさえ言える彼らがトルコへの帰国を強いられたら、彼らの命は危機に晒されるであろうこと。われわれはそのことを知りつつある。これは、それについての自分の自分に対する問いです。

実は、こんなことをちょっとでも書こうものなら、一部の人権活動家からはヒステリックな非難を受ける可能性もある。しかし、それでも敢えて自分に問いたいから書くわけです。私は「彼らを受け容れるべきだ」という本能的な(あるいは感情的な)判断をし、その判断を今後の行動選択の前提であると捉えている。そして、その本能的判断はおそらく正しい。自分が彼らと同じ立場にあったらどうだろうか、とちょっと想像してみれば分かることだ。その上で、彼らへの支援をどう実現し、今後の行動の選択基準をどうするかという話に結びつけようとしているのだ、私は。

私はこうも思った。ことによると、クルド難民受け入れを呼びかける運動を続け、声を大きくしていくことで、この難民家族は日本に受け容れられることになるかも知れない(楽観的だが)。しかし受け容れるか否かの判断は司法が行う領域なので、最終的には彼らの判断を待つしかない。しかし、私が偽善者にならないために次の問に自分自身が答えられなければならない。

仮に、運動が功を奏して彼らが難民として法的に日本に受け容れられたとしよう。問題はその後だ。彼らの受け入れ先は? 住むところはあるのか? ない場合、私たちは彼らを自分の家に住まわせたり、少なくとも自分の家の庭にテントでも張って住んで貰ったり?できるだけの心の準備はできているのか? もしそれができないなら、せめて彼らの住むところを探してきたり、滞納している家賃の肩代わりをしてあげられるのか? これは彼らに同情するわれわれひとりひとりが自分に問わなければならない問いだ。住むところの不自由がなくなったとしよう。自分たちは彼らの仕事を探してきてあげることができるのか? でなければ、彼らがお腹を空かさないだけの支援を自分たちでできるのか? それをいつまで続けられるのか? などなどのことである。

反発を覚悟で敢えて言う。冷静になって考えれば、以上のどの点についても、日本の国家がそれを支えなければならない理由がない。彼らは日本に住む日本の戸籍を持った人々の生活さえ、支え切れていない。町に溢れるホームレスは? 増え続ける自殺者は? 在日朝鮮人の問題さえ解決できていない。人権派の人の反発を招きかねないので、国もそこまでハッキリ主張しないだろうが、政府側のこうした本音は容易に予想できる。

繰り返すように、受け容れるための法律は政治家が作り、受け入れの対象になるかどうか否の判断は司法がする。しかし、彼らの役割はそこまでだ。難民の受け入れは法律や制度上の問題だが、難民の生活を支える義務を国家が負うべきなのかどうかまでは分からない。そもそも、クルド人に限って言えば、歴史的にクルド人離散(彼らが国を持たない事実)の直接の責任を負っていない(と考えるだろう)日本は、彼らを支援しなければならない義務がない(ひょっとすると、それは私の勉強不足かも知れないが)。国は、われわれと同様、彼らに「同情」を見せることはできても、助けなければならない「謂われ」はないのだ(おそらく)。その点に関しては在日朝鮮人の問題とは事情が違う。在日朝鮮人が日本にいるのは、日本の政策の非一貫性がもたらしたものだ。...としたとき、クルドの難民を法的に受け容れる運動をしておいて、受け容れられたら、「その後のことは知らぬ」と言うわけにはいかないのだ、われわれは。つまり、自分はその後の責任まで引き受けた上で、つまりわれわれの家族の一員として一緒に暮らしていくことまで覚悟して彼らに関わろうとしているのか、ということなのである。そこまで問う必要はないのだろうか? もちろんある。そして答は、「そこまでのことを覚悟して彼らを助ける」である。

国の外交政策などの政治判断、たとえばトルコから逃れたクルド人に同情を示すことで、トルコと長年にわたって築き上げてきた友好関係が損なわれて良いのか、みたいな意見も、当然政治家や担当外交官からは出てくることが予想される。また、クルド難民を受け容れたらクルド人だけの問題ではなくなる、それは高度な政治問題になる、そのあとはどうするんだい? というありふれた官僚の言い訳や怖れも予期できる。そうした事もすべて勘案した上で、あるいは、「そうしたことがあるからこそ」という決心を以てして、われわれが難民と格別の関わりを持とうと言うなら話は別だ。それならそれで良いのだ。

ではなぜこのようなひとの反発を招きかねない問いを自分に問うのか? それは、私がこのアタマで考えられるようなことは、われわれの同情や正義を無視したり、ひどいときには敵対したりする国の官僚たちにだって、裁判官にだって考え得ることだからなのです。

だから、そうした反論にわれわれ自身が準備できてなければならないし、難民支援のための活動をする人々は、私のこうしたレベルの「疑い」を楽々と払拭できるような確信、あるいは思想や論理の強化をしておかなければならない。そう考えるわけです。

私の心は、今すぐにでも彼らに会いに行きたい。あるいはdudukでも吹いて彼らと交歓を持ちたい。でも、その前に、上の問いに自分で決着を付ける必要があるのです。しかも早急に。

http://www.mkimpo.com/diary/2004/kurd_sit_in_2004_signature.html


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