衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

なぜシラケるのか
改訂増補版 from entee memo 2004-07-09 (Fri)

August 16, 2004
 
English version

戦争をなくすには、具体的にどうしたらいいのか、という「今日からできる実践」についてのアイデアがない...世界を悪くすることに荷担せずにはヒトは生きられない...という人間煩悩の<公理>を心のどこかでよく「理解」しており、その結果力を失い、それが日々のニヒリズムを確定する。そして、自分の肉体や精神の欲求を満たすことが生活の中心となる。あるいは、経済活動の連鎖の中の義務をしっかり果たす(職業選択の自由があるんだ、とか)ことで、社会における自分の役割はこと足れりとする(オレぁ朝から晩まで仕事で忙しいんだ、という反論の余地のない言い訳)。

しかし、少しでも世の中をよくするための方法は常に打ち出されており、少しでも世界に関心を持ち続けることができれば、それはあちこちで提示されているのは分かる。たとえば食べ物ひとつ取っても、良心的な農家など、出所の分かっている食品を買うとか、リサイクル以前に、石油製品を可能な限り使わないとか、そういうことらしい(「らしい」というのは自分自身がそうしたことの実践者だと言い切れるほど立派なモンじゃないからだ)。

いわゆる学者の類がするように、「われわれの生活は石油に依存している」と事実を言って終わり、ではないのだ。それを得意げに言うなら、ひとりひとりが石油の消費量を減らせば、世界全体では大きなインパクトになる。あと数十年中にそれは「選択の余地のない」ものになるのだ、いずれにしても。「いや石油の見積もり埋蔵量は、年々変わっており、毎年上向き修正が行われている」と得意げに言う人の声が聞こえる。よかろう。しかし、その「上向き修正」が、無限の埋蔵量を保証するものではないだろう。50年先か100年先か200年先かは、問題じゃない。われわれの生活の在り方が未来を明らかに約束できないということが問題なわけだ。

どうして政治に関わる話、とりわけ反戦などの話は、ひとの輪をシラケさせるのだろう。どうして、反戦活動やディープ・エコロジーやニューエイジ・ムーヴメントは鼻でせせら嗤われるのか。彼らそうした論者達は、何かわれわれ“文明人”の害になることを一体したとでも言うのだろうか。少なくとも、そうではあるまい。われわれは実はそうした彼らの生き方を心のどこかで正しいと思いはすれ、彼らを揶揄し、あるいは非難して邪魔をするのは、単にジェラシーがそうさせているということに自覚的でないだけではあるまいか。

そうした論者による話がいかにひとの生死に関わる問題を扱っているのであり、明日のわれわれの安全に関わる問題を扱っているにも関わらず、どうしてそれを持ち出すことが、人々にある種の「場違い」な感覚をもたらすのか? 政治やエコロジーの話を持ち出すひとが悪いのか、シラケてしまうひとたちがいけないのか? そのあたりを考えてしまうのである。

以前、自分自身も、ある別の目的で集まった密室状態のある場で、一種ゲリラ的な「反戦運動への署名協力」を声高に求められて、「なんで今ここで〜?」と、「場違い」さと自身の無力さの自覚(ニヒリズム)と「シラケ」(気恥ずかしさ)を感じた経験がある。正直、自分の中にも政治を気恥ずかしいこととして捉える面が少なからず潜在していたことを認めざるを得ない。(だから「しかたがない」とかいう話ではなく、まず自分の内面の真実を認めるところから少なくとも自分は始めたいと思うので、まず率先してそれを認めるわけですよ)。実際、シラケている自分さえ、その深刻な内容を考えると、シラケている自分の方が本当は可笑しいんじゃないかと責める良心の声が同時に聞こえもする。

しかし、そのことを以て「だから政治や反戦やエコロジーの話をひとの輪に持ち込まない」とはならない。むしろ、「どうやったら、われわれの将来の安全に関わるこの重要な話をシラケさせずに人の輪にうまく持ち込めるのか」を戦略的に考えたいのだ。だって自分の周囲にいて関わって下さるごく僅かな友人達とさえも、それを共有することもできずに、どうして世界を少しでも良い方向に持っていくなどということができるというのだろう? 自分の中に巣くっている「あきらめ」と「シラケ」をどうやって自分自身が克服するのか? どうやってそうしたシラケた空気を人の輪の中から払拭できるのか? 実に、これは一連の「まじめな話」を始めるに当たって、理想家達が最初にぶち当たる主たる壁なのだ。

こういう風にも考える。本当にシラケさせているのは「政治やエコロジー話」自体なのか? そうではあるまい、きっと。シラケるとしたら、おそらくそれは政治や反戦に関わる話自体が詰まらないのではなく、話の持ち出し方、つまり、方法にも問題があるということなんではないかとも思うのである。なぜならば、たとえば新聞やテレビのニュースは、権力による政治的判断によってもたらされる悲劇的な事件について、時々刻々と事態を知らせてきているし、それに対しわれわれは「そーれーにーしーてーもー ひどい話だよなー」と口にしたり相づちを打ったりする程度には、それらについての「考え」や「感じ方」を表明する意志を持っている。この事態に対して、「どうでも良いし、自分に関係ない」と公言するようなひとは、少なくとも自分の回りにはいない。「関わらない」と言いきる人や、「環境の危機幻想を相対化した」というような知的な論者はいても。

ということは、この問題について流される報道映像を眼前にして「ひどい話だよなー」と自動的に反応するだけでなく、あるいは紋切り型の論評をして自分の「人一倍深い理解」を開陳するだけでなく、一体何が、われわれを、その防止への行動から妨げているのかという仕組みを、ひとつひとつ解きほぐす(しかもその過程を共有する)という作業、すなわち実践的な思考へと、すこしずつわれわれの興味を引っ張るという努力があってもいいんじゃないかと思うわけです。

シラケること自体は、実は「敵」を利して、われわれ自身の安全を損なうことになる。そして何よりも自分の精神を深く害することになる。この図式をよく理解すること...。それはそうしたマジメな話を持ち出したい、そうしたことについての関心を共有したい、という自分自身の希望を満たすためにも必要な最初の考察なのだ。 (だって、この期に及んで話すべき価値のある話題というのは、それくらいしかないんじゃないか、と自然に思えるからです。)


© 2004 Archivelago