衒学者の回廊/園丁の言の葉:2004

“二大政党制”などには騙されない

July 12, 2004
 
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参院選が終わった。そして...

「やがて来る二大政党制の時代が云々」という言い方がまたぞろ出てきた。選挙報道なんかを見ていても、ほんの1時間くらいのあいだにテレビがこの手のフレーズを何度くり返したか分かりはしない。なんか二大政党制にならなければならないことが、どこぞで既に「申し合わせ」で決まっているような感じすらある。「申し合わせ」とは、民主的な方法たる公の議論を避けてものごとを決めること、つまり、conspiracy、「陰謀」のことである。(日本は、ネマワシ社会であるそうだから、その点で言うと、日本は“陰謀大国”という呼称こそが相応しい。)この二大政党制の実現とは、「日本が国連の常任理事国入りすることが正義である」というのと同じくらい笑止で、何の根拠もないにも関わらず目指されるべき目標として「お題目」化されている点で、実に怪しいテーマのひとつなのである。

だが、まず「二大政党制」というのは「制」とは言っても、「制度」ではない。どういうことか。つまり、「二大政党制」が法律や憲法が保証する絶対善の政治制度のことではなくて、本来は単に「選挙の結果」として招来される「制度」のことでしかない、ということだ。それはまず認識した方が良い。しかし、それが「制」と呼ばれるが故に、あたかもいくつもの制度の選択肢の中から民意の元に選ばれた理想的な政治制度であるという印象を与えかねない。しかし、それはまったくの謬見だ。

そういう言い方を無条件的に口にする人たちに、この際ハッキリ訊いておきたいんだが、日本が二大政党制になって、なんか良いことがあるとでも思っているんでしょうか? 二大政党制などは、マイノリティの主張を無視して押しつぶし、平気の平左で知らん顔できる、狡猾で卑怯な政治の在り方なんじゃないのか? それが「制度」などと呼ばれて良いのか? 合州国の共和党と民主党による二大政党による政権交代というのを、なんかカッコ良いものと思っているんじゃないかという気がするが、そんなモノは正当性になんらの根拠もない、完全な幻想である。

筆者にはアメリカの政治史を論じられるほどの知識はないが、共和党と民主党が仲良く交代で政権を握ることで作られてきたのが、今日に至るアメリカの横暴な外交や戦争政策の歴史なのではないのかと感じている。アメリカには非合法な共産主義系の党も含めて、無数のマイナー政党があると聞くが、メディアに実際に現れるのは、メジャーな2つの政党、すなわち共和党と民主党だけであり、そうしたメディアの報道を見ている限りでは、あたかもその他の政党など「存在しない」も等しい扱いなのである。しかし、筆者にはそのようなやりかたで、本当にひとびとが自国の危険なエゴを抑えて、「隣国を傷つけることを避ける」ような政策判断ができるとは思えない。なぜなら、大半の人々は、二大政党の党綱領が代表してくれるような「普通の」、自分のエゴを満足させてくれるような、政策を支持して満足してしまうからだ。

そうしたメディアの在り方自体が、二大政党制の陰謀の中に深く組み込まれているはずだし、二大政党が「当たり前でそれ以外に考えられない」という硬直したひとびとの政治観を圧倒的にサポートしているのだ。メディアはこうした硬直した二大政党制的な政治の在り方を既成事実として固定化することのできる唯一の存在だ。「メディアの責任は重い」とかいう、そんな甘っちょろいモノではなくて、あのような「お題目」を無神経に繰り返すメディアこそが、それを成し遂げるのだ。意識しているかどうか分からぬが、こうしたテレビなどのメジャーなメディアが、二大政党制という悪制度を作りだす主犯とさえ言えるのだ。

考えてみても明らかだが、仮に、民主党の大統領候補、ケリーが大統領になったところで、おそらくイラク戦争が終結するわけでもなく、こうした二大政党の政権交代劇というものが、戦争防止のための大した役割も果たさないことは、歴史を見てもほとんど自明である。

言ってみれば、二大政党制とは、国を誤った方向に導いても、誰も止めるものはいないという、危険な一蓮托生たるマジョリティー政党の共犯関係を作るものである。

世の中の実態が複雑であるにもかかわらず、政治の世界を「2つの対立する政党」だけが存在するという、「分かりやすくて」単純な図式の中に収斂させ、複雑な事情の中で圧搾されるマイノリティの声をすくい上げることを、より困難にするのが、二大政党への陰謀である。日本では、その最初の目立った動きが、野党の代表的存在だった社会党の事実上の解体だった。そして、このまま行くと、社会民主党も、共産党も、過去の「多政党制時代の遺物」として葬り去られてしまうおそれがある。

そうなったら、一体誰が少数者の意見をすくい上げ、あやまった政治力による被害者の存在を最小限に抑えるということが可能であり続けられるのだろうか?

われわれは、お題目のように繰り返される「二大政党制への布石」といったメディアの表現を疑い続けなければならない。われわれが知らず知らずに隣人を傷つけるという無神経・無関心の落とし穴に陥らなくするためにも。

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