衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

今度はわれわれが「勝ち組」にいられる、と言うつもりか

March 30, 2005
 
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子供の頃のことだが、戦争の時代に幼少の時代を過ごした両親に、「どうしてお父さんやお母さんは戦争に反対しなかったの?」と訊いたことがある。今から考えれば満足のいく答えではなかったものの、「周囲のみんなが戦争することをいいことだと信じていたし、学校でもそのように先生から四六時中教えられていて、日本の正義を信じ、戦争を支持し、大きくなったら戦争に参加して国家に貢献するんだという考え以外を思いつくことが出来なかった」というようなことを言われた。「じゃあ、お母さんの両親はどうだったの?」と訊いたら、「戦争に負けた時、すごく残念がって怒っていたのを覚えている」と言った。これも答えとしては満足できるものではないが、先の戦争で私の両親の親たち(祖父母の代)が「勝てると思っていたし勝つ気でいた」ことは十分伺える。「勝つ気でいる戦争」であれば、おそらく正しい戦争を闘っているという意識が彼らの世代にあったらしいことも想像できる。

このことからいくつか考えられることがある。われわれの親を育てた上の世代の人たちは本当にどこまで「戦争の正しさ」を信じていたのか、ということがひとつだ。負けたときに見せたという祖母の「悔しさ」からは、戦争の正しさと日本の正義を信じていたように見える。だが、われわれの両親の世代が言うように、彼らを教育した当事者である親の世代が「自分たちの正義」のよりどころにしていた情報や知識というものが、すでに時間をかけた国家的キャンペーンの果 てに、報道管制や戦争遂行者や支持者たちによってコントロールされていた(実際にそうだった)としたら、よほどの批評精神というものを伸長させていない限りは、知らされているわずかなこと以外の考えや思想に到達することが出来ない。近代化という明治維新以来の国家的目標を欧州の考えや方法を手本として踏襲していた以上、「植民地を持つこと」の正当性は、ある程度力ある国家にとって当たり前であって疑うべくもない価値観であったかもしれない。だが、そこには支配されるということがどういうことなのか、被支配者側がどのようにそれを感じるのか、という視点や想像力が完全に欠如している。というか、そうした欠如こそが植民地主義(コロニアリズム)を可能にするのだ。

実際問題、学習するほどに、両親の親の世代でも戦争に抵抗する論陣を張ったり活動した勇気あるひとびとが一部にはいたし、拷問の上殺された非協力者もいた。大正時代にはデモクラシーの思想的運動が席巻したことさえある以上、「知りようがなかったし、仕方がなかった」という、その後の時代の「捉え方」が完全であるとは思えないが、ほとんどマジョリティと呼ばれる大多数の人々が、当時の政治や軍部を疑わなかったとすれば、情報統制は相当に成功していたことも確かだ。だが、騙されたと言って自己免責をどこまで認めるかというのは別 の問うべき問題なのだ。

翻って、われわれはまだまだその気になればいろいろなことを知りうる立場にいる。例えば、与党が提出する新しい法案等がそうだ。それに間違った政策やわれわれを暴力に駆り立てうる思想に反対を表明することも出来るし、また過去の国家的な暴力的行為をあえて肯定しない態度を採ることも出来る。

問題は、現在、子供を育てる親の世代になっているわれわれが、子の世代に何をして何を伝えるのか、ということである。われわれの親の世代が少なからず(加害国内での)戦争犠牲者であったし、周囲に戦火と災禍を広げたのに、われわれは再びやってくる「今日の戦争」の危機にどう対応したのか、ということが未来に問われる。悲惨を巻き起こした到底一方的に主張できない「戦争の正義」や、それへの消極的/積極的加担へと頽落していくとき、「お父さん、お母さんたちはそのとき一体何をしていたの?」と子たちに問われるのである。実際われわれは、自分たちがまずい方向に向かっていることに、実はほとんど自覚的ではないのか? 「仕事で忙しかった」とか「あなたを育てるのに忙しかった」とでも言うのだろうか? その「忙しかった」ことが、育てた子供を戦場に駆り立てたり、われわれ自身を空襲(今風にいえば「空爆」)の危機にさらす「時流」そのものをサポートしていたということに後から気付いて嘆くのか? そして今後起こっても不思議はない国の内外で個人に対して生じるあらゆる種類の悲劇について、かつての世代が「(独走した)軍部のせい」にして、“知らなかった”自分たちを「どうしようもなかった」と免罪して済ませようというのだろうか? だが、それは実際に正直とは言えないだろう。

60年前の戦争についても、「日本だって他の西欧列強と同じことをしただけなんだから俺たちだけが悪かった訳ではない」と言いたい人が今でもゴマンといるようだが、でもそうしたことを後世に伝えるのか? それとも、旧日本軍や財界が朝鮮半島や満州でしたことは、西欧列強の植民地主義と(その植民地政策による後遺症で今日も苦しむ)多くの新たな独立国がかつて体験したこと、現在でもし続けていることと同じものをアジアにもたらしたのだし、支配者側に都合の良い独善的な差別 感情や自国民の一方的な優越観が支えた思想の結果だった、ということを正直に伝えるのか? こういう、選択の時期に来ているのである。

帝国アメリカ合州国がやっているというイラク戦争に対して、心情的に「不支持」であっても、過去の日本国民の所業が清算されていないということに無知であれば、結局われわれはまたしても清算しきれない負の遺産を子孫たちに残す側に再び立つだけなのである。

いまこそ、われわれの話す勇気が試されているのである。そして最後のチャンスをどう生かすかという一か八かの勝負が提示されているのである。

個人情報保護法は、明日から施行される。「人権擁護法」というメディア規制法もそこまで来ている。教育基本法の改悪も予定されていて、その後は憲法改正だ。今声を上げて子供たちを守ろうとせずに、一体いつ「羊たちの沈黙」を破れるというのでしょう? 羊さんたち!

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