衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

もっと強力で知的な武装を!(新旧の概念を超えて)

March 11, 2005
 
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「そんな考え方は古い」という言い方で、ある種の思想なり嗜好なりを評価したり批判したりすることがある。われわれの言葉のやり取りの中で、「時代錯誤(アナクロ)だ」という言い方も、強烈な説得力として機能することが多い。しかし、ちょっと考えてみれば分かることだが、「古くて良い」ものや「古くて正しい」ものがこの世にはあるし、場合によっては「古いから良い」というような単純な例外もある以上、「古い」という理由だけで対象を否定して事足れりと考えるのは、実は片手落ちである。「新しくて悪しきもの」という物事もいくらでもあるのだ。

[ましてや「伝統」という大きな鍋に、伝統芸術やもろもろの伝統文化、そして伝統的 family valueやら、何でも一緒に入れて煮込んでしまってはならない。伝統芸術にはそれらが保持されてきたのには、それぞれ独特の理由があり、伝統的な芸術を受容できても伝統的な family value は肯定できないというスタンスはあり得るのだ。ただ、受け入れ可能な伝統芸能の価値を支持する者たちが、「伝統」的な国家観やfamily valueというものを、ひとつのパッケージにして十把一絡げに肯定するというやり方は、国家や社会を全体主義に持っていこうとする支配者にとっては、やり易い常套手段であろう。]

いずれにしても、「古いか新しいか」という論拠で価値判断をする安易なる陥穽を避けなければ、議論の場で一時的に優位 に立つことは出来ても、論理的にまさっていることを示していることにはならないのである。断じて、超えるべきは新旧の概念なのである。

繰り返すが、「考えが古い」という言い方をしようが、「アナクロだ」と表現しようが、「時流に反している」と断じようが、その言い方自体をわれわれはおそれる必要もなければ、あるいはその逆に、われわれが「古くて悪いもの」を断じるときも、「古い」ということが論理正当性の決め手になっていないことも、よくよく自覚している必要がある。いずれ、「古き」を断じるその「新しい」思考法は、「より新しき」思考法の登場によって克服されてしまうだけなのである。新旧を超えられない思想は、いずれ破綻する運命にある。

われわれは「古い/新しい」を超えた普遍価値を根拠に論敵と闘う必要がある。「普遍価値」などと言うと、それだけで「古いものの代表格」のように思う諸氏もいらっしゃるかもしれないが、たとえば民主主義やヒューマニズムというのはフランスのような国においては、すでに「普遍価値」として広く肯定的に認知されているのである。もっと言えば、グローバルな自由主義経済やこれからいよいよ席巻するかに見える新自由主義というものは、そうした普遍価値から否定されることもできるのである。

たとえばわれわれは、古いか新しいかではなく、「なぜ民主主義が良いのか」という根本原理から語る準備ができていなければ反民主主義という反動がもはや反動としても認知されなくなり、やがて「新しい考え」となってしまった暁には「民主主義はもう古い」という乱暴なほどに単純な断定によって「相対化」されてしまうに違いない。

われわれの生きる時代は、こうした長い時を経て多くの犠牲を払って戦い獲ってきた、人間の目指すに値する「普遍価値」と信じられた価値観を手放す方向に向かっている、明らかに。つまり(思想の)自由や(法の)平等や福祉(目的とする経済活動)というすでに忘却されつつある価値観が、「人間がより人間らしく生きるために」という似非人間主義のスローガンによっても、容易に否定され得るのである。

「人間的」とか「人間らしく」という表現が出たが、これも大いなる課題である。どちらの側が人間的かということも、意見が真っ二つに分かれる。「自由から逃走する(隷属へ向かう)」側も、権威への服従や全体主義的・家父長的な「秩序ある」道徳観を「人間的」と表現するのであり、「自由や平等を獲得するために闘う」側も、ヒューマニティ確保のための戦いだと思っている。

この際、どちらが人間的かという議論もあまり実りの多いものではないかもしれない。早い話が、隷属からの逃走も隷属への逃走も、所詮人間の持っているキャラクターなのだと言ってしまえばきっとそうであろう。だが、私の考えは明白だ。人間は隷属状態が続けば自由を希求するのもであり、社会がいかに安定的に見える「秩序」状態であっても、支配層の経年変化に起因する腐敗によって、形式化され、多くの声なき人々に犠牲を強いるということ。そして、人間はそうした腐敗が起きたときに、それを更新する力や道(方策)を持っていなければならない、ということ。そして、いかなる人も、平等な扱いをされたいという本能的な希求を持っているということ、そして、助け合う心を持ちうる、ということである。隷属がわれわれの社会が向かっている方向であれば、それにブレーキをかけようと<抵抗>することが、断然人間に見られる普遍的傾向なのであり、真のヒューマニズムと呼ばれるにふさわしいものである。

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