衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

思想も周縁的なものにこそ、耳を傾けるべき「ことば」がある

March 31, 2005
 
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本橋哲也著『ポストコロニアリズム』を読み進む。表紙カバーをめくったところの解説によると、ポストコロニアリズムとは「植民地主義暴力にさらされてきた人々の視点から西洋近代の歴史をとらえかえし、現在に及ぶその影響について批判的に考察する思想」を言うらしい。最初、それを「イズム」で呼ぶ理由が今ひとつ自分の解読力では理解できないでいた。

しかし、フランス植民地時代のアルジェリア生まれの「いわゆる知識人階層」に属することになったアルジェリア人の精神科医フランツ・ファノン、そして徐京植(ソ・キョンシク)氏も季刊「前夜」で取り上げていたパレスチナ生まれのジャーナリスト、ガッサン・カナファーニーとその小説「太陽の男たち」、西ベンガルはカルカッタ出身のコロンビア大学教授ガヤトリ・スピヴァクあたりの解説になると、俄然本橋氏の解説しようとしている領域の意味が理解でき始める。私が一読して心酔したサイードにも1章まるまる割いている。

だが、「鱗から目が落ちる」ような強烈な体験は、後で一部引用するスピヴァクの「脱構築的姿勢」をまとめた4つのスローガンであった。ジャック・デリダの「脱構築」がどのようにこのポストコロニアリズムと結びつくのか、あるいはデリダ解説者の高橋哲也氏がどのようにして平和活動家となっていったのか、あたりの事情が、まったく想像もできないほどの自分の知識の欠如であったのだが、このスローガンというのを読んで、それってサイードの熱く語っていた「知識人とは何か」についての分かりやすいもう一つの定義ではないか、と膝を打ったのであった(電車の中で)。

(1) あらゆることに関して自分が学び知ってきたことは自らの特権のおかげであり、またその知識自体が特権であると認めること。そのことと同時に、それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、その知の特権を自分で解体し、いわば「学び捨てる (unlearn)」こと。
とある。「学び捨てる」である。ものすごい言葉である。同時に、これほど明解に相対化された自己批判の立ち位 置というものが他にあるだろうか? これは、スピヴァクのような知の象牙の塔まで上り詰めたアカデミズムにおけるエリートだからこそ言えていることだと一蹴する向きもあるだろうが、われわれ「中途半端な知識人(衒学者)」においてもまったく無関係ではあるまい。結局真の学問やジャーナリズムというものを極めるほどに、知識人は本来どこまでもアマチュアであるべきなのだ、というのがそもそもサイードの言っていたところのことでもある。

僅かで至らない「知」であっても、それは自らが後天的に選んだものではなくて、ある種の特権のおかげだというのは、誰についても真である。だが、その特権的に得られた知というものが、われわれを盲目にもし、自分の立ち位 置というものがあたかも自分の自由意志によって選び取られたものであるかの幻想を自らに許しがちだ。だが、特権はまた何かを見えなくしている訳であり、そうした立ち位 置すらを解体しようとする態度こそが「脱構築」の眼目である、という訳だ。私の半可通 の理解で分かって気になってはいけないが、だが「脱構築」ということの意味が電撃的に理解できたような気がしたのである。
(3) 脱構築はなんらかの具体的な政治的プログラムの基礎となることはできない。しかし脱構築は、「労働者」「女性」といった普遍性をよそおう大文字言語(マスター・ワード)が、じっさいには現実の対象者をもたないことを示唆してくれる。ということはつまり、脱構築は政治の行き過ぎや誤りや盲点を指摘する一つの安全装置となり得るだろう。

(4) 人がそこに安住することを望まざるを得ないような既成の構造を、執拗に批判し続けること。それこそが脱構築の基本的姿勢である。

上の二つは解説を必要としないほどの明晰さとシンプルさをもった主張だ。デリダのオリジナル版、ではなくてスピヴァク版の脱構築ではあるのかもしれないが、こういうハナシなら、「価値の相対化」こそがあらゆる偏見と暴力に結びつき得る乱暴な言説との戦いの主眼であるということに本能的に気が付いた、ほとんど20年来追求してきたまさに「そのこと」を指しているのではないかと、興奮している訳である。

(3)で「政治的プログラムの基礎となることはできない」とあるが、これは「非政治的」な机上の空論で終わる思考活動(形而上のお遊び)であるという風に、私は読まない。これこそ、きわめて「政治的」な言説であるし、だからこそ脱構築論者の幾人かが政治的運動にコミットするということにもなるのだと思う。これは反権力闘争という名の「反・政治」姿勢であるのだ。(というか、思いたい。)

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