衒学者の回廊/園丁の言の葉:2005

オメガ祖型とは何か On the Omega Archetype

2005-09-22 (2006-03-02)
機能が要請する形状:ヴァジュラ(金剛杵) [3]
English version
   

あるオブジェクトが一定の形状になっていることの起源には、大きく分けて二つあるという議論が存在する。「1. 機能が要請する形状」と「2. 約束が要請する形状」というものである。

それによれば次のような説明が成される。

1. 機能が要請する形状: 流体の抵抗を少なくし、推力を有効に与えるという目的で、魚類と同様の形状を哺乳類である鯨類も持っている(これには「平行進化」という用語が存在する)。この形状は将来どんな進化生物が生まれようとも「海中で活発に行動する」機能が要請する必要な形状だと理解できる。このように同じ機能を達成するために必要な形状はどうしても同じ形状に行き着く。この「機能が要請する形状」は、つきつめて言えば人間の行なう意匠上の恣意とは無関係の「自然の法則」の世界に属することになる。すなわち、人類のいない遠い過去、遠い未来、地球上に海生動物がいるならば、やはり魚の様な紡錘形に近い形をしていることが憶測できる。

2. 約束が要請する形状: 発し手・受け手の双方の約束事のうえで成立する文字のように、その形状は約束の上でしか意味をもちえない、というようなそのような形状。この形状は発し手、受け手である人間が不在であれば無意味な形状となる。これは漢字やアルファベット、そして数字のような文字や記号のほとんどに関して言い得る。

By SHIRONO, T (2005)

上記の説明からすると、ヴァジュラは人為が作り出したものとは言え、「1. 機能が要請する形状」であったということが可能である。「火花を散らす」という、必要な自然現象を狙った効果 として繰り返し引き出すという目的に適うもの、という点から言えば、開発に当たりいろいろな「プラグ」が試された可能性はあるものの、結局「あのような形状」に落ち着くと考えるべきであろう。つまり人為が関与していても一定の自然現象を引き出すという目的が存在すれば、そこには「機能が要請する形状」が存在する、ということなのである。

したがってスパーク(火花)を引き起こすと言うのは、「人間に関連して」あるいは「人間の欲望に関係して」利用される「自然の法則」とも言い換えることが出来るわけである。その点で言うと、「人類がいる限り、遠い過去、遠い未来、地球上に人間がいるなら“点火プラグ”は同じ形をしている」ということになる。したがって、人間とは無関係の「自然の法則の世界」においてこそ当てはまるという「機能の要請する形状」についての基本定義は正しいものの、それは人間界(人間の欲望の世界)に於いてもある程度当てはめられることになる。

そして、その「プラグ」がどのように働くものなのか、本当の意味で何を目的とするものなのかという機能が要請する形状の「達成目標」の部分の記憶は容易に失われるが、それがどのような「こと」と関係があったのかという事件(出来事)については伝承される。そして「誰」が使ったものなのかという所有者(使用者)についての記憶もいつまでも残る場合がある。つまり、点火プラグを例に採れば、どうして火を起こせるのかというメカニズム(仕組み)については皆目分からないが、「どうやら火を起こすことと関係があったらしい」ということは伝承される。また、どうやら武器や火器とも関係があり、その道具は「インドラ」という名の神格化された存在者が持っていたもので、しかも「敵を殲滅する」のに使われたらしいという、所有者とその目的についての記憶が残ることになる。

ただ「1. 機能が要請する形状」の本質的意味が喪失すれば、今度は「2. 約束が要請する形状」として、そのものの持っている重要度に応じてその後の歴史を生き延びる。意味や仕組み(メカニズム)に関しての理性による説明が不能になれば、その物体や形状は「発し手 - 受け手」あって初めて意味があるという種類の「徴/コード」になっていく。例えば、「もとの形」がそもそも何を意味したのかが想像できないほど変形してしまっていても、「特定の意味」を持つものとしてその徴の運用者と読解者がいる限り、「約束が要請する形状」として時間を超えて伝わっていく。漢字などが良い例であろう。もともとあった呪術的な意味合いなどはどんどん薄れてき、世俗にかろうじて関わりのある意味部分だけがわれわれの時代に生き残る。そして一義的な意味は失われる。そして二義的・三義的意味合いだけでその象徴が持続的に利用されることとなる。これは言わば1が2に転換する象徴図像に付きものの特徴と言えるのである。

つまり「象徴の解明」とは、漢字の原形状やその原意を研究する学(白川静氏がやってきたような)に似た様なものということに尽きる。つまり、表意文字である漢字の発展は、或る機能や形状を反映したものとして(あたかも「機能の要請する形状」のようなものとして)スタートするが、一旦それが文字として機能し始めると、それが「もともと何であったのか」というよりは、「約束の要請する形状」として記憶されることが優先され、そうした形状だけが世代を超えて伝達されるのである。

仮に「三鈷、五鈷は人類が不在でも機能上の意味のある形状なのか」という問いがあったとすれば、それに対する答えはもはや自明である。その点については、もちろん「人類が不在なら意味はあるはずが無い」となる。すなわち漢字がそうであるように、現在のような「形式」をもつ生き物として人間がいなければ、漢字に読み取れるモノ(意味)も読み取る者(解読者)も無くなる。要するに、記号とは最初から最後まで人類にしか関係がない。これは神も仏もいない、無慈悲なほど「形而下」の問題であると言える。しかし、そうであるからこそ、むしろ「神秘」と呼ぶに相応しい側面 があるのである。

「点火プラグ」の問題は、われわれがしばしば<普遍的題材>と呼ぶところの、或る「より大きな全体的な絵」における各論のひとつに過ぎず、このことだけをもって解釈の真偽を云々しても始まらないことは確かである。むしろこうした細かな一事を以て、あるいはそれに類似した図像群の飽くなき収集によって「より大きな題材」に到達するのではなくて、より大きな題材に対する爆発的認知(尋常ならざる認識/名状し難い体験)が先行し、こうした各論的な象徴の解釈が後から可能になるというのが正しい。むろん、これらの細かな一事が、別 世界の実在(超歴史的世界観)に至る扉の鍵として働くということは大いにある。その意味で、ヴァジュラ(金剛杵)が現在まで伝えられたのは、非常に意義深いことである。それは電気を操る技術文明がわれわれ人類の手に復活するまでは忘れ去られていたことに関係があるからである。

エリアーデの敬愛したハシデウの「歴史に関する大胆な仮説」の第3番において記されているように、「聖なる現象の根源的な意義を把握することによって、われわれは歴史の解釈することができるようになる。なぜなら、その理解こそ解釈の過程全体を生み出し、導き、体系化する意味の「中心」を用意するものであるから」が暗示していることに他ならない。これは言い換えれば「聖なる現象の根源的な意義(と歴史の秘密)を把握することによって、われわれはヴァジュラを含むあらゆる象徴的“遺品”をドミノ式に解釈することができる」となるのである。

「エンジンの点火プラグ」という「人間の要請」に応えて出来上がった極めて俗的な物品が、聖なる意味を持つという「聖俗の転倒*」(反対物の一致)は、この分野においてはまず一大前提でもあり、その辺りの論考はエリアーデのみならずリン・ホワイトの『機械と神: Machina ex Deo』でも「ダイナモ」を例にして取り上げられている事柄である。もっとも俗なものが礼拝の対象になるとい逆説。もちろん、人間が俗なるが故に成就する(してしまう)聖なる結末がある(脱聖化[俗]の果 てに聖の極致がある)という風に言える部分である。もちろん冷静な理性が考えれば考えるほどにグロテスクなことを指し示していることを悟る人も多くいるだろう。

* こうした「性質の転倒」ということでいうと、「他者を殺め、攻撃をするための道具」が「自己を高め護身する何か」という風に一見意味が逆転しているとしか思えないケースがある。なぜ武器が生命を守るということになるのか、と一瞬思ったりするが、それは今でも軍事力(武力)については全くもって似たような根強い「信仰」があることが想起されよう。一方、「最も弱いものが一番強い」(柔が剛を制する)という逆説も古くから知られた逆説である。

「プラグ」の関連図象としては「ダイナモ」の他に、東洋では「宝珠」「蓮のつぼみ」(国技館のタマネギ頭から)があり、イスラム圏のモスクのドームやキューポラがあり、西洋世界では「パイナップル」「優勝カップ」「sevre」「ボーリング・ピン」、さらにバリエーションとしては「fleurs de lys」から「アザミ: thistle」の紋章まで、無視できない物が多々存在する。日本に於いても日常的に目撃できる象徴図像の中でもとりわけ重要なものとしては、家具や家具時計のトップに位 置する「フィニアル: finial」などがある。今後はその辺りもひとつひとつ図版を挙げて取り上げていくことになる。

根拠らしい根拠を示さずに断定的に記述している部分も多いこともあるが、エリアーデもユングさえも具体的に言及していない一歩も二歩も踏み込んだ記述領域になってくる。


「脱俗化」された点火プラグ


「脱聖化」された五鈷杵


(付記)
点火プラグというのはその持ち運びやすい大きさ、摩耗しにくいデザイン、適度に複雑な構造、などなどで「ご神体」としては極めて好都合だというのは実感としてある。幼少の頃、空き地に落ちていた古い点火プラグのいくつかは、近所の仲間同士で分け合って、しばらくは「聖なる武具」のような意味を持つ有り難いものとして秘密の場所に隠したりして大事にとってあった経験があった。それを見た大人に、「それは単なるクルマの部品で、もう古くなって壊れているものだ」と言われても、われわれ子供にとってその聖なる価値は揺るぐことがなかった(それが「雷光」を発生させるものだということも知らなかったにも関わらず)。いまでは、点火プラグのキーホルダー*というようなカーマニアにとってさえある種のステータスシンボルとしても機能している事情は理解できる。とにかく、「全体」にとって重要できわめてエッセンシャルな「部分」であり、しかも取り出し可能で「携帯できる」サイズである、ということ。まさかエンジンやダイナモが聖なるものであったとしてもそれを携帯して持ち歩くには重すぎるからである。


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