衒学者の回廊/“超歴史的秩序”を巡る論考集:2006版

オメガ祖型とは何か:集団的浄化儀礼と<超歴史的秩序>について
On the Omega Archetype

2005-12-05
集団的な浄化儀礼と<Ω祖型>の伝えるもの [1]
オメガ記号の形状に隠された秘儀
English version
Archetypal Omega or the Omega Archetype  


■ 最も古い図像祖型への最も新しい命名:Ω祖型

「オメガの祖型」とは終末的イメージを伝える極めて秘教的な黙示図像の典型であり今後の議論上有用な範型となるものである。“Ω”がギリシア・アルファベットの最終文字であることはすでに知られたことだが、それは「時の終わり」を意味するコードであって、念願たる歴史時代の「終焉」をついに引き起こす人類の「叡智」の結晶を顕すものでもある。これはわれわれを「時の呪縛」とあらゆる「現世の不正」「煩悩」から解放し、大乗的な「救済」を実現し、地上を「浄化」し、「再生の途」に就かせる意味でも拝礼されるオブジェクト(対象)なのである。したがって、あくまでも「人間が造り出すそれ」は、神不在のまま、崇拝される。ここでは神以外の全てが偶像である。それが偶像であるかどうかは、それが天上人のものであろうと天下人のものであろうとに関係なく、またその「顔」や「姿」が描かれているかどうかとも関係がない。神の直接関与でなく、この<自体>が人の手によって造り出されたものによって引き起されるという事実への理解が重要である。そして人の手によって造り出されるもの全てが偶像なのである。

むろん、その「救済」手法の具体性──それは大いにグロテスクなものであると悟るべきであるが──を知的に了解した上で、われわれがそれを「礼拝」の対象とし続けるのかどうかは別 問題である。だが、人類は「それ」の歴史的実在と実現可能性を未来の世代であるわれわれへと伝えて来たし、祖先達は無意識にそれに対する畏敬を抱きながらもあたかもそれを「待望している」としか言いようのない態度や表現によって、その存在についての伝達をおこなってきた。そしてそれらは単なる「装飾的意匠」で収まることのないものであり、極めて宗教的な儀礼や慣習と結びついて(あるいはその本質的コアとして)伝えられて来た。その具体的内容がグロテスクな未来を予兆するものであっても、表向きは「栄光」や「待望されるべき善なるもの」、そして時として「救世の主」として、肯定的認識なしには伝達が成り立たなかったはずである。誰も「人間の悲惨」を待ち望むことはないからである。しかし、われわれはそれをその意味の二重性を了解した上で、善悪を超えた人類の知恵として、「壊しつくり直す」契機たる物品をここでは「叡智の結晶」を呼ぶことにしたのである。

その「叡智」が凝縮した壷、上昇し天上にて輝くサンビーム、人類のあらゆる知(科学技術など)すべてを含む「天空にて割られる薬玉 状のオブジェクト」が、「Ω祖型」と今後われわれが呼び習わす図像群であり、それらの総称となるであろう。


■ 歴史的事実の入れ子構造(コトとモノ)

“Ω”は正に一巡し閉じようとする円環(円相)“O”の「直前」の図としてその文字をその形状から解読することができる。音韻的には“O”(オウ)と同じ機能(そして、最初と最後の音韻さえそのひとつの文字の中に内包する)を持つが、ギリシア語の「オメガ」には、それがひとつの一群の祖型的イメージを持ったものの総称名として使用されて行くだけの必然性があり、その記号と音自体が、その意味に相応しい魔術的な力持った徴であると言えるのである。

われわれにとって、“Ω”はひとつの<事態>である。その点において“Ω”はモノではなくコトである。

しかし“Ω”は同時にその<事態>を引き起こすことのできる<物品>である。その点において“Ω”はコトではなくモノである。

すなわち<物品>の「創造」が時間に円環をもたらす<事態>を引き起こすと言い得るが、“Ω”という幅を持った時間的エポックこそがその<物品>を造り出し、人類の手にそれを与えるのだとも解釈できる。つまり終わりがいよいよ近づいたからそれができ上がるのか、それができ上がったから終わりが来るのかは、その表面 上では判断ができない面がある。それは文明そのものの持ったキャラクターである。つまり文明があるから終わりが来るとも、終わりがあるからこそ文明呼ばれるに相応しいとも言えるのである。

いずれにせよ、“Ω”はある「事・物」のふたつの側面を表している。現象面 では、“Ω”で表されるひとつの大きな<事態>は、小さな“Ω”の存在によって惹起される。そしてその大きな<事態:物理現象>は、時間の中では超大の<事態:歴史的円環>を引き起こす。これは“Ω”の持つ決定的な性格である。可視の“Ω”は、常に不可視「的」な極小と極大とを伴ってわれわれの眼前に現れる。


■ 注目を払うべきその記号の形状

図像的には“Ω”という文字自体の持つ曲線の「始め」と「終わり」の出会おうとする間隙部分に小さな“Ω”が存在する。

それは“Ω”という文字自体が形態上、無視できない二つの意味を内包するからである。ひとつは閉じようとする寸前の円環。これは閉じきってしまえば“α”に変容を遂げる直前の形象である*。そして、もうひとつはその形状そのものの示唆しうるものである。これは図像学的にも不思議なほどの幅広いバリアントが存在するが、「アザミ」の文様などですでに一瞬だけ触れたことのある形象である。これは本章の後半で例証を観ていくことになる。

このアザミ以外にも、世界にその「形状」自体を伝えるため(だけ)と言って良い品々があり、あらゆる宗教的・象徴的な図像の中に登場する。それらは繰り返すように、“Ω”の形状そのものであり、それらの特徴のひとつは、(バトミントンの)シャトルコック状の形ということも出来る。それは丸みを帯びた重みのある先端と羽根のような広がりを帯びた後尾部であり、ある特定の機能を反映する。これは上昇するときは(ロケットの様に)先端を上に向け、下降するときは(矢の様に)先端を下に向ける。そうした物理特性を体現化したものと言うことができる。そしてΩ祖型は、そのバリアントを後世に伝えるものである。

* “α”とは「〆:シメ」である。正月(年末年始)の飾りが「〆飾り」(七五三飾り)や「シメ縄」(注連縄)と呼ばれるのには一つの時代が終わり閉められ、次の周回へと繋がっていく「締め」の意味があるからであるが、文字形態上も“α”と等しい。


■ 作品・表現の中の入れ子構造

ふたたび「Ω祖型」とは何か。その形状的な「現れ方」の特徴の一つは、すでに言及した“Ω”の概念と等しく「入れ子構造」にある。

例えばそれは「暦茶碗」で見てきたように、「茶碗の円周」そのものがまず大きな“Ω”の記号であると捉えられ、その茶碗の提示する「季節」が一巡して一つの円環が終わり、新たな円環が始まる地点がある(コトとしての“Ω”)。これら二つの地点にはまさに“Ω”の記号がその形象によって顕しているが如く、「隙間」のような断絶がある。そしてその隙間にもうひとつの“Ω”記号(あるいはΩを表す類似のもの)が置かれる(モノとしての“Ω”)。すなわち「二つの周期の狭間」の部分に見出される記号(この場合は「宝珠」ないし「三位 一体」を表す記号や形象)が、また小さな“Ω”になっているということなのである。そしてその小さな“Ω”記号の円環の閉じようとしている間隙に、さらに小さな極小の“Ω”が存在する。(そしてそれはおそらく無限小にまで繰り返す。)

そしてわれわれの視ているその茶碗、すなわち、われわれにとっての可視の象徴としての“Ω”たる暦茶碗は、より大きな“Ω”、より大きな“Ω”という儀礼的時間の間隙部分に鎮座する“Ω”なのである。だが、このより大きな儀礼的時間を表す“Ω”は、大きすぎてわれわれの通 常の視力や知覚(視点)では認識することが出来ない。そしてこの大きな“Ω”は、さらに極大の“Ω”の間隙部分に、そしてその極大の“Ω”は、超極大の“Ω”の間隙部分に、おそらく鎮座している。これを無限大に繰り返す。

“Ω”という記号は、まさに錬金術の秘伝中の秘伝として考えられているエメラルド盤(The Emerald Tablet)の「上なるものは下なるもののごとし、そして、下なるものは上なるもののごとし*」という叡智をその一文字によって結晶化しているのである。参照:The Emerald Tablet of Hermes Trismegistus

“Ω”はその自体の形状が「波頭とフィニアル」構造を体現しているということができ、またその形状から宝珠と同じ意味機能を果 たす。こうしたひとつの“Ω”が小さな“Ω”を含むという構造は、優勝杯(壷)のようなフィニアルにも見られるものである。つまり壷自体が終わらせるもの(“Ω”)であると同時に、その図像の中には左右から伸びる波頭(蔓)形状の腕とそれが今にも届こうとする、頻繁に果 実のような形状をしたツマミ(大型のフィニアルの中の小型のフィニアル)が含まれることが多いからである。「引き起すもの」と「引き起されること」の両方がひとつの記号の中に閉じ込められている。

以上のように、図像のはたらき自体が入れ子構造になっているのが「Ω祖型」の最大の特徴なのである。つまり、われわれは恒にひとつのオメガを見ているようで実は、その極大部分の(間隙の)一部なのか、目に見えない極小部分によって惹起されようとするやや大きな何かの一部なのか、それが分からなくなるような構造になっているというわけである。しかしその錯覚はどれも正しいのである。

■ 音韻の中の入れ子構造

さらにこの「オメガ」という記号の卓越したところは、その音自体に「アルファ」と「オメガ」を含む点である。“Ω: omega”は、すぐ後にも語るようにそれ自体の中に[aum-ega]という風に最初の音 “a” と最後の音 “um” を含むのであり、音韻的にも「入れ子構造」になっているのである。

「終わりを表すもの」自体が「始まり」と「終わり」の両方を含むということになる。あるいは、「終わりを表すもの」が「終わらせるもの」と「次の始まりの端緒となるもの」の両方を含むわけである。

次回は、Ω祖型の典型とも言うべき図像群を具体的に観ていくことにする。


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